御製冒頭の頌辞
- 皇上は即位以来、文徳をもって四方を懐柔し、万姓を休養させてきた。二三の藩臣(呉三桂・耿精忠・尚之信)が久しく外地に藩鎮を構え、恩寵を頼んで驕り高ぶることを憂慮した皇帝は、彼らが自ら藩の撤去と帰還を願い出たのを機にこれを許し、田廬・廩餼・道里の費えまで手厚く配慮した。
- ところが呉三桂は背恩して反乱を起こし、耿精忠・尚之信も相次いでこれに呼応、八年にわたり生民を苦しめた。皇帝は六師を発して征討にあたらせ、逐次これを平定、呉三桂は窮して病没し、耿精忠・尚之信も降伏後に再び謀反を企てて誅殺された。呉三桂の孫・世璠のみ雲南に拠って抵抗を続けたが、康熙二十年(1681年)十月、大軍が雲南を平定し世璠は自害した。
尊号奉請と編纂の由来
- 平定の報が届くと、諸王・貝勒・大臣らは皇帝に尊号を奉ることを願い出たが、皇帝は再三これを固辞した。御史の戴王縉は、この大功を書物にまとめて後世に示すべきだと上疏し、礼部尚書・武英殿大学士の覚羅勒徳洪らも歴代の紀功の書(『紀功述』『平蔡録』『平淮記』『伐叛記』『竜飛日暦』『聖政記』『経武要略』など)に倣い、皇帝の功業を編纂すべきだと議した。
- 皇帝はこれを許し、史館に命じて康熙十二年(1673年)三月から二十年(1681年)に至るまでの用兵の経緯を編年体で記録させることとした。以下は康熙十二年三月から始まる本文である。