尚可喜の撤兵上奏
- 三月壬午、平南王尚可喜が老齢を理由に兵権を返上し、遼東への帰郷を願い出た。可喜はもと明の武将で、後金に投じて総兵官に取り立てられ、平南王として広東に駐屯していた。その子・尚之信は素行が悪く、酒に酔って人を殺すなど不法が目立ったため、可喜は自らの引退を機に藩の整理を願い出た。
- 皇帝はその功労を嘉し、両佐領分の官兵家口を遼東へ移すことを許した。残る緑旗官兵約六千は広東に留め、広東提督の統轄とすることになった。
呉三桂の撤兵上奏
- 七月庚午、平西王呉三桂も撤兵を上奏した。三桂は明の辺将から後金に降り、平西王として雲南に駐屯していたが、次第に驕慢となり、私兵を蓄え、部下の王輔臣・李本深・呉之茂・馬宝らを心腹として重用していた。尚可喜の願いが許されたのを見て、自身も撤兵を願い出た。
- 朝廷では議政王大臣らが対応を協議し、意見が分かれたが、最終的に三桂の願い通り官兵家口の遷移を許可し、雲南には満洲兵を派遣せず三桂自身に統率を委ねることとした。
耿精忠の撤兵上奏
- 八月丙子、靖南王耿精忠も撤兵を上奏した。精忠の祖父・耿仲明も明から後金に降った武将で、精忠は襲封後、部下に不正な利益を貪らせ福建の民を苦しめていた。可喜の一件を見て撤兵を願い出、朝廷はその官兵家口の遷移を許可した。
史論(臣謹按)
- 呉三桂ら三藩の将は、もとは私心や窮迫から清に帰順した者たちであったが、朝廷は彼らを厚遇し、辺境平定の功を挙げさせた。しかし藩鎮として長く駐屯するうちに驕りが募り、民を苦しめる存在となった。皇帝は歴代の藩鎮の害を鑑み、彼らの撤兵の願いを機に藩権を回収する英断を下したのであり、これは目先の姑息な計にとらわれない深謀であった。
撤藩使者の派遣と勅諭
- 八月壬子、礼部侍郎の哲勒肯を雲南へ、戸部尚書の梁清標を広東へ、吏部侍郎の陳一炳をそれぞれ福建へ派遣し、藩の遷移や地方の善後策を協議させた。皇帝は呉三桂・尚可喜・耿精忠にそれぞれ勅諭を下し、長年の労を労いつつ北上を促した。
- 九月丁卯朔、雲南総督に鄂善、提督に桑額を任じた。
- 十一月丙戌、俸餉の前給を戸部に命じ、三藩官兵家口が出発するまでの生計を保障した。
呉三桂の反乱と朱国治殺害
- 十一月丙戌(二十一日)、呉三桂は密かに謀を進めていたが、撤兵使節の哲勒肯らが到着し出発を促したため、事の露見を恐れて挙兵、雲南巡撫の朱国治を殺害し使節団を抑留した。三桂は「天下都招討兵馬大元帥」を自称し、翌年(甲寅)を「周王元年」と称した。
- 貴州提督の李本深もこれに応じて叛き、雲貴総督の甘文焜は貴陽を脱出する途中、鎮遠で賊軍に包囲され自刃した。貴州巡撫の曹申吉は賊に降った。
出師の議定
- 十二月、議政王貝勒大臣に出師を議させ、前鋒・護軍・驍騎などの兵制を定めて出兵の準備を進めた。
史論(臣謹按)
- 清朝の八旗制度は、周代の郷里に兵を寓する古法にかない、平時は民、有事には即座に動員できる仕組みであった。呉三桂の反乱が伝わるや、朝より夕べには出兵の準備が整うほどの機動力を発揮できたのは、この制度によるものである。
撤兵停止と諸将の派遣
- 反乱の報を受け、朝廷は福建・広東二藩の撤兵をひとまず停止し、派遣していた梁清標・陳一炳らを召還した。
- 孫延齢(孔有徳の女婿)を撫蛮将軍として広西の守備に、線国安を都統に任じた。
- 西安将軍の瓦爾喀を四川へ進駐させ、蜀の要害を確保して雲南からの侵入を防がせた。
史論(臣謹按)
- 巴蜀は雲貴の門戸であり、ここを扼して守れば進んでは雲南を取り、退いては蜀を守ることができる。この配置により湖南の呉三桂軍も動きを牽制され、朝廷の深謀が功を奏したが、後に諸将の進軍がやや遅れたため蜀にも変事が生じ、かえって天討の威を煩わせる結果となった。
寧南靖冦大将軍の任命
- 十二月己未、多羅順承郡王の勒爾錦を寧南靖冦大将軍に任じ、諸将を率いて呉三桂討伐に向かわせた。皇帝は自ら祭旗の礼を行い、勒爾錦・赫業(安西将軍として四川へ)にそれぞれ勅印を授け、軍紀の厳守と民への恩恵を諭した。
楊起隆一党の謀反鎮圧
- 十二月庚申、朱三太子を詐称して謀反を企てた楊起隆の一党・李株らが捕らえられた。皇帝は首謀者九人のみを法により厳罰とし、残る百九十四人は斬刑を減じ、家族への連座も免除する寛大な処置をとった。
史論(臣謹按)
- 賊党の自白では謀反に連座する者は千人にも及ぶとされたが、皇帝はこれを問わずに済ませた。京畿の重地にあってなお極刑を濫用せず、汚染された者もともに新しく生きる道を開いたその仁は、古来稀にみるものである。
各地への駐防配置
- 副都統の瑪哈達を兖州に、科爾崑を太原に駐屯させ、京師と楚蜀を結ぶ両道の要衝を固めた。
史論(臣謹按)
- 兵は安逸を善しとし、労苦を最も避けるべきとする。皇帝は道里の均衡を考えて諸将を段階的に配置し、警急があれば直ちに増援できる体制を整えた。この用兵の妙が、のちの平定の速さに大きく寄与した。
巡撫の兵権継続と呉三桂の官爵剥奪
- 十二月辛酉、各省巡撫に引き続き兵権を管轄させることとした。
- 壬戌、呉三桂の官爵を削奪する詔を発し、雲貴の軍民に向けて敕諭を下した。三桂の忘恩と反逆を糾弾する一方、賊境にある官民が已むを得ず従った場合は罪を問わず、三桂を討ち取った者には破格の恩賞を与えると布告した。また三桂配下で他省に出仕していた者の親族についても連座しないことを重ねて明言した。
出師紀律の申明
- 皇帝は兵部に出師の禁令を厳格にするよう命じ、民の財物略奪や婦女への暴行、河川施設の破壊などを固く禁じ、違反者は主帥ともども重罰に処するとした。
察哈爾諸王の従軍申し出とその却下
- 十二月甲子、察哈爾和碩親王の布爾尼をはじめとする外藩諸王が、朝賀のため入朝した際に呉三桂の反乱を聞き、自ら馬匹や兵を率いて従軍したいと願い出た。皇帝は、呉三桂はもと流賊に迫られて帰順した者に過ぎず、いま反乱を起こしても行き場はないとして、これを退け、春に草木が茂る頃まで待つよう命じた。