後漢紀巻第三十 孝獻皇帝 建安十二年 207年

曹操の上表と荀彧の増封

  • 春、曹操が上表して荀彧の功を称えた。かつて袁紹が都の近郊に攻め入り官渡で戦ったとき、兵は少なく兵糧も尽きて許都へ引き返そうとしたが、荀彧が進んで討つべきだという方針を立てたおかげで大逆を打ち砕きその軍勢を奪い取ることができた、と述べる。
  • また袁紹を破った後、曹操の側は兵糧が尽き、河北の平定は容易でないと考えて南の劉表を討とうとしたが、荀彧がその利害を論じて止めた。曹操はこれに従って向きを変え、結果として四州を平定できたという。
  • もし官渡で退いていれば袁紹は勢いに乗って進撃し、そのまま劉表を征伐していれば河北の禍が長引いたはずで、荀彧の二つの献策は滅びを存続に、禍を福に転じたもので自分の及ぶところではない、と曹操は言う。
  • 先帝が指揮・献策の功を重んじ、直接に敵を捕らえる働きへの賞を軽んじたのは、帷幄の謀を尊び城攻めの手柄を下に置いたからであり、荀彧の功績は高い爵位に値するのに世間はその実状を知らず、受けている恩賞が功に釣り合っていない。そこで改めて評議し、封戸を増やしてほしい、と要請した。
  • 荀彧が固く辞退すると、曹操は返答して、あなたの謀りごとは上表した二件だけではない、これまで謙遜し続けるのは魯仲連を慕っているのか、それこそ聖人が節を通す点で貴ばれるところだ、と述べた。
  • さらに、介子推が「人の財を盗むのも盗みと言う」と言ったことを引き、あなたが密かに謀って人々を安んじ、自分に先んじて事を為したことは百を数えるほどなのに、二件の功だけを返してさらに辞退するとは、謙譲が過ぎるのではないか、と押し切った。
  • 三月癸丑、守尚書令の荀彧に一千戸を加増し、以前の分と合わせて二千戸とした。曹操は荀彧を三公に推薦しようとしたが、荀攸を通じて十数回も固辞させたので取りやめになった。
  • このころ、曹操の世子は聡明で人物も優れているので、天下の賢哲を高く選んで師傅とし王者の徳を輔け育てるべきであり、出征の際には軍の副将として次第に軍を指揮する道を学ばせるべきだ、との議があり、曹操はこれに従った。

北方平定と烏桓・遼東

  • 秋八月、曹操は白狼山に登り、匈奴の冒頓(烏桓の単于)と戦って大いに破り、これを斬った。
  • 袁尚・袁熙は遼東へ逃げたが、遼東太守の公孫康が二人を斬り、その首を都へ送った。
  • 乙酉、曹操の三人の子を列侯に封じたが、曹操は受けなかった。

冬の異変と劉備の新野

  • 冬十月、彗星が鶉尾の分野に現れた。
  • 乙酉、済南王の劉斌が黄巾に殺された。
  • 劉備は新野に駐屯し、荊州の豪傑で帰服する者が日ごとに増えた。

諸葛亮と三顧の礼

  • 琅邪陽都の人、諸葛亮、字は孔明は、みずから田畑を耕して暮らし、好んで梁甫吟を口ずさんだ。身の丈八尺、つねに自分を管仲・楽毅になぞらえたが、当時の人は誰も認めなかった。
  • ただ博陵の崔少平(崔州平)と潁川の徐元直(徐庶)だけが亮と親しく、その自負はまことにその通りだと認めていた。
  • 徐庶が劉備に会って、諸葛孔明は臥龍だ、将軍は会ってみたいか、と勧めた。劉備が連れて来てほしいと言うと、徐庶は、この人は出向いて会うべきで、呼びつけて来させることはできない、将軍のほうから足を運んで訪ねるべきだと答えた。
  • そこで劉備は三度その庵を訪ね、人を退けて語りかけた。漢室は傾き、姦臣が権をほしいままにし、主上は都を追われている。自分は力量も徳も顧みず天下に大義を通したいと思うが、知恵も策も浅く、これまで失敗を重ねて今日に至った。それでも志は捨てていない。どうすればよいか、と問うた。

隆中の対

  • 諸葛亮は答えて、董卓以来、豪傑が各地に起こり州郡にまたがる勢力は数えきれないほどだ、と説き起こす。
  • 曹操は袁紹に比べれば名も低く兵も少なかったが、ついに袁紹に勝ち弱をもって強となった。これは天の時だけでなく人の謀によるものである。今や百万の兵を擁し、天子を擁して諸侯に命令している以上、正面から力を争うべき相手ではない。
  • 孫権は江東を占め、すでに三代を経て、国は険しく民は懐いており、賢者がその謀に当たっている。これは味方として援けを求める相手であり、攻め取る相手ではない。
  • 荊州は北に漢水・沔水を押さえ、利は南海に及び、東は呉・会稽に連なり、西は巴蜀に通じる用兵の要地であるが、その主にはこれを保つ力がない。これは天が将軍に与えようとしているものである。
  • 益州は要害に囲まれた沃野で、天府の地と呼ばれる。高祖もこれによって帝業を成した。今の劉璋は暗弱で、北には張魯がおり、民は富み国も豊かなのに、これを保ち恤む術を知らない。有能の士は明君を得たいと願っている。
  • 将軍は帝室の血筋で信義は四海に知られ、英雄を広く集め、賢者を渇くように求めている。荊州と益州を併せ持ち、その険阻を保ち、西は諸戎と和し、南は夷越を撫し、孫権と結んで内政を整えるべきだ。
  • そして天下に変事が起これば、一人の上将に荊州の軍を率いさせて宛・洛に向かわせ、将軍自身は益州の軍を率いて秦川へ出る。そうすれば民は誰もが食物を携えて将軍を迎えるだろう。こうして覇業は成り、漢室は復興できる、と述べた。
  • 劉備は「善し」と応じ、以後は諸葛亮との親しみが日ごとに深まった。諸将が面白く思わなかったので、劉備は、自分に孔明があるのは魚が水を得たようなものだ、もう言うな、と諭した。