後漢紀巻第二十九 孝獻皇帝 建安九年 204年

夏・秋 鄴の陥落

  • 夏四月、曹操が邯鄲を抜いた。
  • 秋八月、曹操が鄴を破り、袁尚と袁熈は匈奴のもとへ奔った。
  • 辛巳、蕭何の後裔を安衆侯に封じた。

九月 孔融の上書

  • 九月、太中大夫の孔融が上書した。
  • 自分はこう聞いている。まず九圻を分けて遠近を序列づけ、春秋は諸夏を内とし夷狄を外とした。詩に、封畿千里は民の止まるところとある。だから天子の居所は必ず衆く大きなものだと言うのだ。
  • 周室が衰えると六国は力で争い、賂を授け諸夏を割き裂いた。鎬京の制も商邑の度も、年を経るにつれて人々に忘れられ、ついに暗く分からなくなった。
  • 秦が天下を併せると、政は旧きに従わず、五等の爵を削り侯甸を掃き滅ぼし、万里の城を築き海辺に門を立て、六合を一区とし五服を辺境の関としようとした。守りが要を得なかったので、陳勝・項羽の難を招き、家庭が海に臨むようなありさまで、拍子木を打っても救いは来なかった。
  • 聖漢はこれを踏襲したまま改めず、なお古法に依って潁川・南陽・陳留・上黨・三河といった近郡には諸侯を封じない。愚考するに、千里の国内はほぼ周官の六郷六遂の文に従い、北の諸郡を分け取ってすべて司隷校尉に属させ、王賦を正して帝室を尊び、近くから始めて遠くを寛やかにし、華の貢献を外は四海にまで及ぼし、文を量り武を奮って各々の典籍を備えるべきである、と。天子はこれに従った。
  • 戊辰、司空曹操に冀州牧を兼ねさせた。

九州の議

  • ある者が曹操に、古制を復して九州を置けば統べるところが広大になり天下が服すると説き、曹操は従おうとした。
  • 荀彧が曹操に言った。冀州が公に牧を領していただいて民心をつなぐのはたいへんよい。しかし九州に分け改めることには疑いがある。もしそうすれば、冀州は河東・馮翊・扶風・西河および并州・幽州の地を取ることになり、奪う相手が多くなる。
  • 先ごろ公が袁尚を破り審配を擒えたことで海内は震え、人々は自分の土地を保ち兵衆を守れるかと恐れている。いまそれを冀州に付け替えれば、将たちはみな動揺する。しかも關右を喜ぶ者は多く、彼らはこの動揺の計を見て、次は自分が順に奪われると考えるだろう。ひとたび変が生じれば、善を守っていた者も脅されて非に転じ、袁尚は死を免れて息をつき、袁譚は二心を抱き、劉表は江漢の間を有することになって、天下は容易に図れなくなる。
  • 願わくは公はまず兵を率いて河北を定め、そののち旧京を修復し、南して荊州に臨み、王への貢が入らないことを責められよ。そうすれば天下はみな公の意図を知り、人々は自ら安んじる。天下が大いに定まってから古制を議されるがよい、と。
  • 曹操は「足下がいなければ、失うものが多かった」と言い、九州の議は取りやめになった。
  • 十月、彗星が東井に現れた。凉州の四郡を分けて梁州とした。