後漢紀巻第二十九 孝獻皇帝 建安三年 198年

春正月 李傕の誅殺と諸将の最期

  • 春正月、李傕を破って斬り、三族を誅滅した。
  • 郭汜はその配下の将伍習に殺された。李樂は病死した。胡才は怨みを持つ者に殺された。張陽はその配下の将眭固に殺された。馬騰と韓遂は凉州で互いに攻め合った。
  • 五月、韓暹と楊奉が死んだ。

秋七月 荀彧の献策

  • 秋七月、曹操が張繡を征伐して破った。
  • 荀彧が曹操に説いた。先に呂布を取らなければ河北は図りにくい、と。
  • 曹操は、袁紹が關中を侵し、西は羌を、南は蜀漢を誘えば、自分は兖州一つで天下の五分の一に対抗することになる、どうすべきかと言った。
  • 荀彧は答えた。關中の将帥は十数を数えるが、長く一つにまとまることはできない。中でも韓暹と馬騰が最も強い。彼らは山東の敗戦を見れば必ずそれぞれ兵を擁して自保しようとする。恩德で撫でて連合させ互いに推し合わせれば、長続きはしなくとも、公が山東を平定するまでは動かない。西方の事は鍾繇に委ねればよく、公は憂えるに及ばない、と。曹操はこれに従った。
  • 九月、曹操が呂布を征伐した。

袁術の僭称と楊彪の下獄

  • この年、袁術が天子を自称した。袁術は楊彪と姻戚だったので、曹操は楊彪の忠正を忘れて彼を捕らえ獄に下し、殺そうとした。
  • 孔融はこれを聞き、朝服に着替える暇も惜しんで曹操に会いに行き、言った。楊彪の家は代々清らかな德を伝え、四代にわたって輝きを重ねた。周書にも父子兄弟の罪は互いに及ばないとある。まして袁氏の罪ではないか。易には善を積めば余慶ありというが、あれはただ人を欺く言葉だったのか、と。
  • 曹操が、国家の意思だと言うと、孔融は答えた。かりに成王が召公を殺そうとしたとして、周公は知らぬと言えるだろうか。いま天下の官人士大夫が明公を仰ぎ見ているのは、漢室を輔け、直きを挙げて枉れるを措き、世を和らぎ栄えさせてくれると思うからだ。それなのに無辜の者をみだりに殺せば、海内で見聞きする者の誰が心離れずにいようか。孔融は魯國の一男子である。明日にはさっさと衣を払って去り、二度と朝廷には出ない、と。
  • 曹操は思いを解き、楊彪を放免した。楊彪は漢の命運が衰えようとしているのを見て、代々公輔を出した家として異姓に仕えるのを恥じ、病と称して出仕しなかった。

鄭玄

  • 鄭玄を大司農に召し出したが、応じなかった。
  • 鄭玄は字を康成といい、北海郡高密の人である。嗇夫となって孤児や身寄りのない者を憐れみ助け、村里は安らいだ。家は貧しく、休暇を得るたびに学校に赴いて経書を誦した。太守の杜密がこれを非凡と見て吏の籍から除き、学問を極めさせた。
  • 鄭玄は右扶風に行き、南郡太守の馬融に師事した。馬融の門下は非常に盛んで、弟子は順番に従って教えを受けるため、三年経っても馬融に会えなかった。それでも鄭玄はいよいよ熱心に学び、昼夜倦むことがなかった。馬融は彼を見て非凡とし、引見して語り合った。書物の奥義で精しく研めていないものはなく、馬融は「詩書禮樂はみな東へ行ってしまった」と嘆じた。
  • 折しも党錮の事が起こったが、鄭玄は教授をやめず、弟子は数百人に及んだ。中平の初めに禁錮がすべて解かれたとき、鄭玄はすでに六十余歳だった。はじめて王公から招かれたが、一つも応じなかった。
  • 鄭玄は身の丈八尺、眉は秀で目は明るく、あわただしい時も倒れ伏すような時も、礼に外れた振る舞いをしなかった。黄巾の賊数万人が鄭玄の廬を通ったときは皆これを拝し、高密一県は掠奪を受けなかった。
  • 袁紹はかつて鄭玄に会って礼を尽くさなかった。趙融はこれを聞いて言った。賢人は君子の望むところである。賢に礼を尽くさないのは君子の望みを失うことだ。事を成そうとする君主は万民の歓心を失わないものだ、まして君子においてをや。君子の望みを失えば、事を成すのは難しかろう、と。