後漢紀巻第二十九 孝獻皇帝 建安四年 199年

春 呂布の滅亡と曹操の辞譲

  • 春、曹操が呂布を捕らえて斬った。
  • 二月、司空曹操が太僕の趙岐に位を譲ろうとしたが、許されなかった。
  • 三月、衛將軍董承が車騎將軍となった。曹操には呂布討伐の功として三千戸が封ぜられたが、固辞して受けなかった。
  • 三月、袁紹が公孫瓉を討った。

六月 孫策と張昭の諫書

  • 六月、孫策を會稽太守・討逆將軍とし、吳陽侯に封じた。
  • はじめ彭城の人張昭は乱を避けて淮南にいたが、孫策が賓客として礼遇し、孫策が東方を経略するに及んで参謀の長となった。
  • 袁術が帝号を僭称したと聞き、張昭は孫策のために書を作って袁術を諫めた。
  • 昔、董卓は無道にも王室を虐げ、禍は太后に及び、暴虐は弘農王にまで及んだ。天子は都を離れ、宗廟は焼かれた。そこで豪傑が発憤して一斉に立ち、元凶は滅び、幼主は東を顧みられるようになった。そして王人を遣わして命を奉じ、朝廷の恩を明らかにし、武を収めて文を修め、共に新たに始めようとされた。
  • ところが河北には別の企てがあり、黒山は従わず、劉表は南で僭乱し、公孫は北で叛逆し、劉繇は兵を阻み、劉備は盟を争った。そのため命を承けて弓を袋に収め戈を収めることができずにいる。
  • 使君は国と同じ志を持つと思っていたのに、それを顧みず自ら取ろうとする志を抱いておられる。海内が待ち望むところとは違うのではないか。
  • 昔、湯が桀を伐ったのは夏に罪が多いと言い、武王が紂を伐ったのは殷に重い罰があると言ったからだ。この二王は聖德があったが、もしその時に道を失う過ちがなかったなら、どうして迫って奪うことができただろうか。
  • いま主上に天下に対する悪があるだろうか。ただ幼くして僭越な臣に脅されているだけで、湯武の時とは違う。しかも幼主は明智聡敏で早くから成った德があると聞く。天下はまだ恩を被っていないが、みな心を寄せている。これを輔けて興せば、周公旦や召公奭のような美名を得られ、それこそ天下の望むところだ。
  • 使君の家は五代にわたって漢の宰輔となり、栄寵の盛んなことは比ぶべきものがない。忠を尽くし節を守って漢室に報いるべきだ。世人は図讖の言に惑い、無関係な文をこじつけ、主君を喜ばせるのをよしとして成敗の計を顧みない。今も昔も慎むべきところだ。忠言は耳に逆らい、異を唱える議は憎まれるものだが、尊明のためになるのならば辞退はしない、と。
  • 袁術ははじめ淮南の兵力を頼み、孫策は必ず自分に同調するものと見込んでいた。ところがこの書を得ると、愁い沮んで病を発した。

袁紹の野心と耿苞

  • 袁紹は公孫瓉を破ってから貢献が稀になり、態度も怠慢になった。ひそかに主簿の耿苞を使って、赤德の運は衰え暦数はまさに改まろうとしている、天意に順って民望に応えるべきだと申し立てさせた。
  • 袁紹が耿苞の申し立てを軍府に諮ると、議する者はみな耿苞を妖妄として誅すべきだとした。袁紹は耿苞を殺して人々を宥めたが、そのまま逆謀を抱き続けた。

南征をめぐる論争

  • そこで袁紹は南に出兵して曹操を攻めようとした。沮授と田豐が諫めた。出兵が年を越して百姓は疲弊し、倉庫に蓄えがなく賦役ばかりが重い。これは国の深い憂いである。まず使者を送って戦勝を天子に献じ、農を務めて民を休ませるべきだ。もしそれが通じなければ、曹操が王への道を隔てていると上表し、そのうえで黎陽に進駐し、次第に河南に陣を営み、船を増やし器械を整え、精騎を分け遣わして辺境を掠め、彼を安んじさせず、こちらは安逸を取る。三年のうちに事は坐したまま定まる、と。
  • 審配と郭圖は言った。兵書の法に、十倍なら囲み五倍なら攻め、対等なら戦えるとある。いま明公の神武をもって河朔の人衆に跨り曹氏を伐つのは、手を返すようなものだ。今のうちに取らなければ後で図りにくくなる、と。
  • 沮授は言った。乱を救い暴を誅するのを義兵といい、衆を恃み強を頼むのを驕兵という。義の兵に敵はなく、驕る者は先に滅びる。曹氏は天子を迎えて許都に宮を建てた。いま兵を興して南に向かうのは義に背く。しかも廟堂の勝算は強弱によらない。曹氏は法令が行き渡り士卒は精錬されており、坐して囲みを受けた公孫瓉とは違う。いま万全の術を捨てて名分のない兵を起こすのは、公のために危ぶまれる、と。
  • 郭圖は言った。武王が紂を伐ったのを不義とはしない。まして曹氏に名分がないなどと言えようか。しかも公の軍は武臣勇将がそろい、士は憤り、人は自ら馳せたいと思っている。この時を逃して早く大業を定めないのは、思慮の過ちだ。天が与えるのに取らなければ逆に咎を受ける。越が霸となり呉が亡んだのはそれゆえだ。監軍の計は時勢を見て機の変を知る者の計ではない、と。袁紹は郭圖の説に従った。
  • 郭圖らはこれに乗じて沮授を讒言した。沮授は内外を監督統率し、威は三軍に震っている。これ以上勢いを増したらどう抑えるのか。臣が主と並ぶのは昌え、主が臣と並ぶのは亡ぶ、と黄石の書も忌んでいる。しかも外で兵を統べる者が内情を知るべきではない、と。袁紹は疑いを抱き、監軍を三都督に分け、沮授・郭圖・淳于瓊にそれぞれ一軍を統べさせ、そのまま南下した。

冬 張繡の降伏と官渡への布陣

  • 冬十一月、張繡と賈詡が曹操に降った。
  • 十二月甲辰、司隷校尉の鍾繇が節を持って關中を鎮撫した。
  • 庚辰、曹操が軍を率いて官渡で袁紹を防いだ。
  • 孔融が荀彧に言った。袁紹は地は広く兵は強い。田豐や許攸のような智謀の士が謀り、審配や逢紀のような忠を尽くす臣が事に当たり、顔良・文醜の勇は三軍に冠たるもので兵を統べている。勝つのは難しいのではないか、と。
  • 荀彧は答えた。袁紹の兵は強いが法が整っていない。田豐は剛直で上に逆らい、許攸は貪欲で身を慎まず、審配は専断で謀がなく、逢紀は果断だが独断的だ。この審配と逢紀が留守を預かるのだから、許攸がその法を犯せば必ず容れられず、許攸は必ず変を起こす。顔良と文醜は一人の勇にすぎず、一戦で擒にできる、と。
  • 袁術が北の青州へ行こうとしたので、曹操は劉備に迎え撃たせた。折しも袁術は病死した。曹操は劉備を遣わしたことを悔いて追わせたが及ばず、劉備はそのまま下邳に拠った。