春正月〜二月 元服と生母の改葬
- 春正月辛酉、天下に大赦した。甲子、帝が元服を加えた。
- 二月戊寅、有司が皇后を立てるよう奏した。詔は、皇妣の墓所もまだ卜されておらず、三年の喪のあいだは礼として吉事を口にしない、朕は終身の思慕を尽くせぬにせよ、どうして後宮の選を言うに忍びようか、と答えた。
- そこで太尉の朱儁、司徒の淳于嘉、司空の張喜が奏した。春秋の義に、母は子によって貴くなるとある。皇妣を改葬し、穆宗・恭宗の故事にならって尊号を追上すべきである、と。
- 甲申、皇妣王氏を改葬し、霊懐皇后と号した。
霊懐皇后の来歴
- 后は邯鄲の人である。祖父の王苞は尚書を修めて五官中郎となり、父の王章は苞の学業を継いだが、貧しく仕えなかった。子は二人あり、男は王斌、女は王栄で、栄が后である。
- 后は選ばれて掖庭に入り貴人となって寵を受けた。身ごもったとき何后を怖れ、薬を服して胎を除こうとしたが胎は安らかで動かなかった。また日を背負って歩む夢を見て、ついに帝を生んだ。
- 何后はこれを憎み、毒を用いて霊懐后を殺した。帝(霊帝)は大いに怒って何后を廃そうとしたが、黄門たちが請うたのでかろうじて思いとどまった。
- 霊帝は上が早くに母を失ったのを憐れみ、王后を追慕して令儀頌を作った。
- はじめ上は詔して王斌を捜し求めた。斌は妻子を連れて長安に詣で、屋敷と田地を賜り、執金吾に遷って都亭侯に封じられた。
- 丁亥、車駕が藉田を耕した。
馬騰・韓遂と李傕の衝突
- このころ李傕らは政を専らにして乱していた。馬騰らが私に求めたものが得られず、騰は怒った。
- 益州牧の劉焉が宗室の大臣であることから、使者を遣わして招き引き、ともに李傕らを誅そうとした。焉は子の劉範に兵を率いさせて騰のもとに就かせた。
- 岐州刺史の种邵は太常の种拂の子で、拂は害された者である。中郎将の杜禀は賈詡と隙があり、いずれも馬騰と合流してその遺恨を晴らそうとした。
- こうして李傕と馬騰は離反した。上は使者を遣わして和解させようとしたが従わなかった。韓遂が衆を率いて来て傕と騰を和させようとしたが、やがて再び騰と合流した。
- 壬申、馬騰は兵を整えて平楽観に屯し、長安を図ろうとした。李傕は樊稠・郭汜と兄の子の李利を遣わして騰と遂を撃ち、これを破った。种邵と劉範らは皆死んだ。
- 韓遂は西へ走り、樊稠が追った。遂は稠に言った。天地は覆るもので先のことは分からない。もともと争っているのは私怨ではなく王家のことだ。足下とは同じ州の者で、多少の食い違いはあっても大筋では一致すべきである。よく語り合いたいが、この先はもう叶うまい、と。二人は馬を並べてしばらく語り合い、別れた。
- 庚申、馬騰を赦した。
- 夏四月、馬騰を安狄将軍、韓遂を安降将軍とした。
兖州の変と荀彧
- 徐州牧の陶謙と北海相の孔融が天子を洛陽に迎え還そうと謀ったが、折しも曹操が州を襲ったので沙汰やみとなった。
- 陳留太守の張邈が反し、呂布を兖州牧とした。郡県は皆これに応じ、甄城・范・東阿の三県だけが従わなかった。
- 邈は人を遣わして荀彧に、呂布将軍が曹使君を助けて陶謙を撃ちに来たので食糧を給されたい、と告げた。衆は皆疑ったが、彧は邈が乱を起こしたと見抜き、ただちに兵を整えて備えた。
- 当時、曹操の軍は陶謙を攻めていて留守の兵は少なく、呂布側の督将や有力な吏の多くが邈と通じていた。その夜、謀叛した者数十人を誅し、衆はようやく落ち着いた。
- 豫州刺史の郭貢が数万の衆を率いて城下に来た。呂布と同謀していると言うので衆は大いに恐れた。貢が彧に会見を求め、彧が行こうとすると、ある者が、君は一州の鎮であり行けば必ず危うい、いけないと止めた。
- 彧は言った。貢と邈はもとから結びついた仲ではない。今来たのは計がまだ定まっていないからだ。定まらぬうちに説けば、たとえ用いられなくとも中立にはさせられる。こちらが先に疑えば、彼は怒って計を固めてしまう、と。
- 貢は彧に恐れる様子がないのを見て、甄城は容易に攻められないと考え、兵を引いて去った。
- 曹操は軍を還して呂布を攻めた。
五月〜秋七月 人事と災異
- 五月、揚武将軍の郭汜をその場で復将軍に拝し、美陽侯に改封した。安集将軍の樊稠を右将軍とし、開府を三公と同じ格式とした。
- 六月丙子、河西郡を分けて雍州とした。
- 丁丑、京師で地震があり、戊寅にも地震があった。乙酉の晦、日食があった。正殿を避け、兵を寝め、五日間政務を聴かなかった。
- 秋七月壬子、太尉の朱儁が災異により策罷された。戊午、太常の楊彪を太尉・録尚書事とした。
- 甲子、鎮南将軍の楊定をその場で安西将軍に拝し、開府を三公と同じ格式とした。
大旱と長安の飢饉
- 四月から七月まで雨が降らなかったので、詔して侍御史の侯汶に囚人を洗い直させ、軽罪の者を原免させ、上は正殿を避けた。
- 穀物は高騰し、大豆一斛が二十万に達した。長安では人が食い合い、餓死する者が非常に多かった。
- 帝は侍御史の侯汶を遣わして太倉の米と豆を出させ、貧民のために粥を作らせた。米と豆は半々とし、大小に応じて差を設けたが、それでも餓死者は多かった。
- 帝は配給が実態どおりでないと疑い、侍中の劉艾に命じて米と豆を各五升取り、御前で火を焚いて粥を作らせたところ、二盆分ができた。
- そこで劉艾が出て問いただす文書を示した。米豆五升で粥二盆ができるのに、民が疲弊しきっているのはなぜか。朕は甚だ憐れんでいる。民が自力で生きられないからこそ使者を出して米豆を配らせ、益があることを期したのだ。御史が思いやりを加えず、このありさまとは何事か、と。
- 尚書以下は省閤に詣でて謝罪し、侯汶を捕えて取り調べるよう奏した。詔は、法官に付すには忍びない、杖五十とし、速やかに自ら支給を受けた者の名を上げさせよ、と命じた。こうして人々は皆救われた。
八月〜冬十二月
- 八月、馮翊の羌が属県を侵したので、後将軍の郭汜と右将軍の樊稠らが衆を率いてこれを破り、数万級を斬った。
- 九月、曹操が鄄城に還り、呂布は山陽に屯した。
- 冬十二月、司徒の淳于嘉が久しい病により罷めた。衛尉の趙温を司徒・録尚書事とした。