春正月 日食と災異の帰責
- 春正月甲寅朔、日食があった。未晡八刻、太史令の王立が、日晷は度を過ぎているが変色はないと奏したので、朝臣は皆賀した。
- 帝は密かに尚書に観測させたところ、未晡一刻に食した。尚書の賈詡は、王立の観測は不明で上下を疑わせ誤らせた、太尉の周忠も職掌の者であるから、皆罪を治めていただきたいと奏した。
- 詔は答えた。天道は幽遠で事の験は明らかにしがたい。しかも災異は政に応じて至るのだから、道を探り微を知る者であっても誤りを免れられようか。それを史官の咎に帰そうとするのは、朕の不徳を重ねるだけである、と。こうして従わなかった。
- そこで正殿を避け、兵を寝め、政務を聴かなかった。
五月〜六月 貢献と災異、人事
- 五月丁卯、天下に大赦した。徐州刺史の陶謙が使者を遣わして貢を奉ったので、謙を徐州牧とした。
- 癸酉、雲がないのに雷が鳴った。
- 六月、華山が崩れた。
- 東海王の子である劉琬と、琅邪王の弟である劉邈が闕に詣でて貢献した。琬を平原相、邈を九江太守とし、いずれも列侯に封じた。
- 太尉の周忠が災異により罷めた。太僕の朱儁を太尉・録尚書事とした。
- 己酉、平原相の劉備を豫州牧とした。
秋七月 宮人の衣服と呉碩弾劾
- このころ遷都したばかりで宮人の多くは衣服がなかった。秋七月、帝は太府の絹を出して作らせようとしたが、李傕はこれを望まず、宮中に衣があるのになぜまた作るのかと言った。
- 尚書郎の呉碩はもとより傕に諂っていたので、関東はまだ服さず用度も足りない、近臣の衣服のことで同僚を圧するようなことをしていると言い立てた。
- 尚書の梁紹が呉碩を弾劾して奏した。碩は瓦器のような器量で天台に職を奉じながら先公を思わず私家のために務め、奥の神に背いて竈の神に媚び、ただ大臣に諂っている。昔、孔子は少正卯を誅して刑罰を明らかにした。碩は放逐して姦偽を懲らしめるべきで、長く放置して黜けなければ必ずその邪と惑いを縦にし、忠正の士を傷つけて患いは小さくない、と。
- 帝は碩が李傕に気に入られている者だったので、その奏を寝かせた。
裴茂の赦免と儒者の試験
- このとき帝は侍御史の裴茂に詔獄の軽罪の者二百余人を原免させた。その中には李傕に罪をねじ曲げられた善士がいた。
- 傕は上表して、裴茂が勝手に囚人を出したのは不正があるのではないか、法官に付すべきだと言った。
- 詔は答えた。災異がたびたび降り、陰雨が害をなすので、使者に命を託して恩沢を宣布させ、軽微な者を許して天心に合わせようとしたのである。冤罪の結び目を解こうというのに、かえって罪に問うのか。一切詮議には及ばない、と。
- 七月甲午、年老いた儒者三十余人を試験し、上第の者には郎中を賜い、次は太子舎人とし、下第の者は罷めさせた。
- 詔は言った。孔子は学が講じられぬことを嘆いた。講じられなければ知るところは日に日に失われる。今この儒者たちは年が六十を越え、本土を離れて家からの仕送りも届かず、身体を働かせて口を糊しなければならない。幼くして学び始め、老いて農野に捨て置かれることを朕は甚だ憐れむ。よって第に入らなかった者も太子舎人とせよ、と。
冬十月 太学の礼と災異
- 冬十月、太学で礼を行った。車駕は宣平城門に行幸してこれを臨観し、博士以下にそれぞれ差を設けて賜った。
- 辛丑、京師で地震があった。彗星が天市に現れた。占いには、民は移り天子は都を移すとあり、のちの東遷がこれに応じたものであった。
- 司空の楊彪が地震により策罷された。丙午、太常の趙温を司空・録尚書事とした。
劉虞の死と公孫瓉
- はじめ公孫瓉と劉虞のあいだに隙があった。虞はその変を恐れて兵を遣わして襲わせ、行く者に、他の者を傷つけるな、伯珪一人を殺せばよいと戒めた。
- 瓉は火を放って虞の営を焼き、虞の兵はみな火消しに戻った。虞は恐れて居庸に奔り、烏桓・鮮卑を召して救おうとしたが、瓉が兵を率いて囲み、虞を生け捕って帰った。
- このとき朝廷は使者の殷訓を遣わして虞の封邑を増し六州の事を督させ、瓉を前将軍・易侯に封じていた。瓉は虞が尊号を称そうとしたと誣告し、訓を脅して虞を誅させた。
- そこで虞の故吏である漁陽の鮮于輔がその州の人々と三郡の烏桓・鮮卑を率い、瓉が置いた漁陽太守の鄒丹と蒯北で戦って大破し、丹を斬った。やがてその衆を率いて王命を奉じたので、帝はこれを嘉した。
- 袁紹もまた将の麴義と虞の子を遣わして合流し瓉を撃った。瓉は敗れて易へ走り帰った。
- 以前から童謡に、燕の南のはずれ、趙の北のきわ、その中央の合わさらぬところが砥石ほどの広さで、ここだけが世を避けられる、というものがあった。瓉は易がそれに当たると考え、京観のような高台を築いて固守し、粟三百万斛を積んだ。
- 瓉は言った。昔は天下の事など指図一つで定まると思っていたが、今見ればわが決するところではない。兵を伏せ田を耕し、この穀を食い尽くすころには天下の事も分かるだろう、と。
田疇の事績
- はじめ劉虞は嘆いて言った。賊臣が乱を起こし朝廷は流離し、四方はにわかに定まった志を持つ者がない。自分は宗室の遺老として衆と同じでいるわけにいかない。今、使を奉じて臣節を尽くしたいが、辱めを受けない士はいないものか、と。
- 一同は田疇こそその人だと答えた。疇は字を子泰といい、右北平無終の人である。読書を好み撃剣に長じ、当時二十二歳であった。
- 虞は礼を尽くして会見を求め、会って大いに悦び、従事に任じて車騎とともに行かせようとした。疇は、今は道が険しく遠く、賊が横行しているので、官を称して使を奉じれば衆に目をつけられる、私的な旅として通り抜けることだけを期したいと言い、虞は従った。
- 疇は勇壮な者を選んで二十騎を募り従わせた。虞は自ら出て道中の無事を祈る祭りをして送り出した。
- 疇は塞外に出て北山沿いに馳せ、朔方の方へ向かって道を尋ねながら進み、ついに長安に至って使命を果たした。詔で騎都尉に拝されたが、疇は天下が蒙塵しているときに栄誉と寵を身に帯びるべきでないとして固く辞して受けなかった。朝廷はその義を高しとし、三府がそろって辟したがいずれも就かなかった。
- 返報を得て馳せ帰ったが、着かないうちに虞はすでに公孫瓉に殺されていた。疇は着くと虞の墓に詣でて祭り、章表を陳べて読み上げ、哭泣して去った。
- 瓉はこれを聞いて大いに怒り、懸賞して疇を捕え、なぜ独り劉虞の墓で哭し、章報を自分に届けないのかと問うた。
- 疇は答えた。漢の返報に記された内容は将軍にとって美しいものではなく、お聞きになりたいものでもあるまいと思って差し出さなかった。それに将軍は大事を挙げて望むところを求めながら、すでに罪なき君を滅ぼし、義を守る臣まで仇とする。まことにこれを行うなら、燕の士は東海を踏んで死ぬだろう、どうして将軍に従おうと思う者があろうか、と。
- 瓉はその答えを壮として誅さず、軍中に拘えて、旧知の者が通じるのを禁じた。ある者が瓉に、田疇は義士だ、礼遇できずに拘囚すれば衆心を失うと説いたので、瓉は疇を放った。
- 疇は北へ帰り、一族と付き従う者数百人を率い、地を掃き清めて盟い、君の仇を報いなければ世に立てないと誓った。
- 徐無山に入り、深く険しく平坦に開けた地を選んで営を構えて住み、自ら耕して父母を養った。百姓が帰服し、数年のあいだに五千余家となった。
- 疇は父老たちに言った。諸君は自分を不肖としないで遠くから来てくださり、衆は都邑をなしたが統率する者がない。これでは長く安んじる道ではない。賢良な長者を推し選んで主としてほしい、と。皆が善しとし、こぞって疇を推した。
- 疇は言った。今ここに来たのはかりそめに生き延びるためだが、大事を図りまた恥をそそぐことも望んでいる。志を得ないうちに軽薄な者どもが互いに侵し侮り、一時の快を貪って深い計も遠い慮もなくなることを恐れる。自分に愚かな計があるが、諸君と行ってよいか、と。皆は可とした。
- そこで殺傷・窃盗・争訟に関する法を約束として定め、重いものは死に至り、次は罪に相当する罰とし、二十余条とした。また婚姻と嫁娶の礼を定め、学校を興して講授の業を立て、その衆に施行した。
- 衆は皆これを便として道に落ちたものを拾わず、北辺はこぞってその威信に服した。烏桓と鮮卑もそれぞれ使を遣わして通好し、疇はすべて受け入れて撫し、寇をなさないようにさせた。
- 袁紹はたびたび使を遣わして命じ、そのうえ将軍の印綬を授けたが、疇はいずれも拒んで受けなかった。
冬十二月 人事と江東の情勢
- 十二月辛丑、司空の趙温が地震により罷めた。乙巳、衛尉の張喜を司空・録尚書事とした。漢陽郡を分けて永陽郡とした。
- この年、袁術は孫策に江東を略取させた。軍が曲阿に及び、揚州刺史の劉繇が敗れて会稽へ奔ろうとした。
- 許邵が言った。会稽は富んでいて孫策が欲しがるところであり、しかも海辺の袋小路だから行くべきではない。豫章は西は荊州に接し北は連なっている。吏民を収め合わせて貢献を送り、曹兖州と連絡を保てばよい。袁公路が間を隔てているとはいえ、あの人物は豺狼であって長続きしない。足下は王命を受けているのだから、孟徳と景升が必ず救ってくれよう、と。繇はこれに従った。
許邵の来歴
- 邵は字を子将といい、汝南平輿の人である。若くして書を読み、三史を好み、人物の善悪を論ずるのが巧みで、その評した人物評はどれも言葉どおりになった。世はこれを郭氏の鑑識になぞらえた。
- 広陵の徐球が汝南太守となり、邵を功曹に請うた。球もまた名士だったので、邵は初めて官に就いて仕えた。
- 同郡の陳仲挙は当時名が重く、郷里の後進で訪ねない者はなかったが、邵だけは詣でなかった。蕃が人に、長幼の序は廃せないものだ、許君はそれを廃すつもりかと言うと、邵は、陳侯は崖が高く険しく、どの谷川も行き着けないと言い、ついに訪ねなかった。
- かつて潁川に行ったとき陳仲弓を訪ねなかった。理由を問われて邵は、この方の道は広い、広ければ行き届かないから行かないのだと答えた。
- 同郡の袁季初は公族の豪侠で賓客が集まっていた。濮陽令を辞して帰るとき従う車が甚だ盛んだったが、郡境に入ろうとして嘆き、わが車馬と衣装を許子将に見せられようかと言い、賓客を謝して帰らせ、単車で家に戻った。邵が憚られたのはすべてこの類である。
- 司空の楊彪が辟いたが就かず、方正に挙げられて公車で徴されたが行かなかった。ある者が勧めると、邵は、今は小人の道が伸び、王室はまさに乱れようとしている、淮海の地に避けて老幼を全うしたいと言った。
- 天下が乱れると邵は広陵に至り、徐州刺史の陶謙が非常に厚く礼遇した。しかし邵は、陶恭祖は外では名声を好むが内実はそうではない、今徐州は穀が高く小人が側におり、賓客に飽きようとしているところだ、自分への待遇は厚くともその勢いは必ず薄くなると言い、江を渡って劉繇のもとに身を寄せた。
- その後、陶謙は寄寓する士人たちを捕え、陳留の史堅元と陳郡の相仲華は江湖に逃げ隠れた。いずれも名士である。
- 邵は劉繇とともに行き、豫章で生涯を終えた。