春正月 孫堅と李傕らの戦い
- 春正月丁丑、天下に大赦した。
- 牛輔が李傕・郭汜・張倕・賈詡を遣わして関東へ兵を出し、まず孫堅に向かわせた。堅は梁東に屯を移したところで李傕らに大敗した。
- 堅は千騎を率いて囲みを突き破って脱し、再び軍を集めて陽人で戦い、李傕の軍を大いに破った。
- 李傕はそのまま掠奪しつつ陳留・潁川に至り、荀彧の郷里の人々は多くが殺されたり掠われたりした。
帝の東帰計画と劉虞・公孫瓉の対立
- 帝は東へ帰ることを願い、侍中の劉和を関外に出して父である太傅の劉虞のもとへ遣わし、兵を率いて迎えに来させようとした。
- 道は南陽を経た。袁術は劉虞を後ろ盾にできると考え、劉和を人質にして行かせず、兵が到着したらともに西へ向かうと約束し、劉和に虞あての書状を書かせた。
- 虞は書を得て数千騎を袁術のもとへ遣わした。公孫瓉は術に異心があると知って遣わすなと止めたが、虞は聞き入れなかった。
- 瓉は術がそれを聞いて自分を恨むのを恐れ、従弟の公孫越に千騎を率いさせて術のもとへ遣わして関係を結び、密かに術に劉和を捕えて兵を奪えと教えた。これによって虞と瓉のあいだに隙が生じた。
呂布と王允の密謀
- はじめ五原の人である呂布は弓馬に巧みで膂力が人並みはずれていた。丁原を殺したのち董卓に信愛され、父子の契りを誓った。
- 卓は自分が人に無礼な扱いをしていることを自覚し、謀られるのを恐れて、行動の際は常に呂布を護衛にしていた。
- 卓は気が荒く狭量で、憤ると後先を考えなかった。あるとき意にそぐわぬ些細なことで手戟を抜いて布に投げつけたが、布は身をかわして避け、卓に謝って卓の怒りも解けた。しかし布はこれによって内心で卓を怨むようになった。
- 卓が布に中閤の守りを任せていたとき、布は卓の侍婢と私通し、発覚を恐れて心中穏やかでなかった。
- 司徒の王允は布が同郷の壮健な者であるとして厚く迎え入れていた。布が王允のもとへ来て卓に危うく殺されかけた次第を語ったので、允は僕射の士孫瑞と密かに卓誅殺を謀っていたことを布に告げ、内応させようとした。
- 布が、父子の関係をどうするのかと言うと、允は、君はもともと呂を姓とする者で骨肉ではない、今は死を憂えるのに手一杯であろうに何が父子かと答えた。布はついに承諾した。
夏四月 董卓の誅殺
- 夏四月辛巳、帝の病が癒えたのを機に未央殿で群臣を大会した。董卓は自分の営から掖門まで衛兵を配置した。
- 士孫瑞は騎都尉の李順に呂布の親兵十人を率いさせ、衛士の服を偽って着せて掖門に置いた。
- 卓が出ようとしたとき馬が乱れて進まず、卓は怪しんで引き返そうとしたが、布が勧めたので進んだ。門に入ると衛士が戟で刺したが、卓は衣の内に鎧を着ていたので刃は通らず、腕を傷つけて車から落ちた。
- 卓が大声で呂布はどこだと叫ぶと、布はここにいると答え、詔があると言って兵を促し、卓を斬った。卓は罵ったが、そのまま斬られた。
- 卓の母子も皆誅され、遺骸は市に晒された。司徒の王允は人を使って卓の腹の上で火を燃やさせ、臭気が立ってから埋めた。
董卓の来歴
- 卓は字を仲潁といい、隴西臨洮の人である。若いころ任侠を好み、羌の地に遊んで諸帥とことごとく交わりを結んだ。
- のちに帰郷して田を耕していたが、豪帥で訪ねてくる者があると、ともに帰って耕作用の牛を殺してまで宴を開いた。諸豪帥はその心意気に感じ、帰って雑畜千余頭を集めて贈った。
- 桓帝の末に六郡の良家の子として羽林郎となった。才武と膂力があり、鞬(矢入れ)を左右に二つ帯びて左右いずれにも馳せながら射ることができた。次第に軍功を重ねてついに大将軍にまで至った。
蔡邕の死
- 卓が死んだとき、蔡邕は王允の座にあって卓の死を聞き、嘆き惜しむ声を漏らした。
- 允は邕を責めた。国の大賊であり主を弑し臣を害した者で、天地も覆わず人臣がひとしく憎むところだ。君は王臣として代々国恩を受けながら、国主の危難に際して戈を返しもせず、卓が大誅を受けたのにかえって嘆息する。礼が去り刑が取るところだ、と言って、吏に命じて廷尉に送り罪を治めさせた。
- 邕は允に謝して言った。忠でなくとも大義は心得ている、古今の安危は耳に聞き飽き口に常に説いてきたことだ、どうして国に背いて卓に味方しようか。狂い盲いた言葉が誤って出て患いを招いた、自分こそその者である。願わくは黥首の刑を受けてでも漢の史書を書き継ぎたい、と。
- 公卿は邕の才を惜しんで皆で允を諫めた。允は言った。昔、武帝が司馬遷を殺さなかったので謗書が後世に流れた。今、国祚は衰え戎馬は郊にある。佞臣に筆を執らせて幼主のかたわらに置いてはならない。後になって我らが謗議を受けることになる、と。こうして邕を殺した。
蔡邕の来歴
- 邕は字を伯喈といい、陳留圉の人である。博学で優れた才があり、文章に巧みで音律を解し、伎芸から術数の事まで精通しないものがなかった。
- はじめ司徒府の吏に辟され、郎中に遷って東観で著作にあたったが、直言によって刑を被った。
- はじめ太尉の董卓は邕を見て非常に重んじ、高第に挙げて御史に補し、また治書御史・尚書と転じ、三か月のあいだに三台を歴任させ、左中郎将として高陽侯に封じた。
董卓死後の政局
- 呂布を奮武将軍とし、節を仮し、開府を三公と同じ格式とした。
- はじめ黄門郎の荀攸は議郎の鄭泰・何顒、侍中の种輯と謀っていた。董卓の無道は桀紂を越え天下が怨んでいる、強兵を擁しているとはいえ実は一匹夫にすぎない、今これを直に刺し殺して百姓に謝し、そのうえで殽山と函谷に拠り王命を挟んで天下に号令すれば、桓公・文公の挙にひとしい、と。
- 事が成りかけたところで発覚し、何顒と荀攸は捕えられ獄に繋がれた。顒は憂え恐れて自殺したが、攸は談笑し飲食して平然としていた。折しも卓が死んだので免れ、官を棄てて郷里へ帰った。
- 兖州刺史の劉岱が黄巾に殺され、東郡刺史の曹操が兖州牧となって黄巾を撃ち破り、降った者は三十余万人にのぼった。
- 五月丁未、天下に大赦した。征西将軍の皇甫嵩を車騎将軍とした。
李傕らの反攻と長安陥落
- 董卓が死ぬと牛輔はその配下に殺された。李傕らが帰還したところ、輔が死んで頼るものがなくなり、それぞれ散って帰ろうとした。しかし赦書もなく、長安では涼州人を皆殺しにするつもりだと聞き、憂え恐れてどうしてよいか分からなかった。
- 賈詡が言った。長安では涼州人を皆殺しにする議があると聞く。諸君が衆を棄てて単身で行けば、一亭長でも君らを縛れる。それより衆を率いて西へ向かい、各地で兵を集めて長安を攻め、董公の仇を報いるがよい。事が成れば国家を奉じて天下を正し、成らなければそのとき逃げても遅くはない、と。
- 衆はもっともだとし、その衆を率いて西へ向かい、行く先々で兵を集め、長安に至るころには十余万に達した。卓の旧部将である樊稠らも兵を合わせて長安を囲んだ。
- 劉表が袁紹と和を結んだので、袁術は怒って孫堅を召して表を攻めさせた。新野で戦い、表は襄陽に退いて屯した。堅は全軍でこれを囲んだ。
- 表の将である黄祖が江夏から表を救いに来たが、堅は迎え撃って祖を破り、勝ちに乗じて軽騎で追ったところ、祖の伏兵に殺された。堅の子の孫策と孫権はいずれも袁術に従った。
- 六月戊午、長安城が陥落した。呂布は戦って勝てず、数百騎を率いて冀州へ奔った。
- 李傕らは城内に入り、太常の种弗、太僕の魯猷、大鴻臚の周奐、城門校尉の崔烈、越騎校尉の王順を殺し、死者は数十人にのぼった。
- 司徒の王允は乗輿を守って宣平城門に上った。允が李傕らに、臣下が威福を作すべきでないのに兵を放って好き放題にするとは何のつもりかと問うと、傕は、董卓は陛下に忠であったのに罪なく呂布に殺された、卓のために布に報いたいだけで逆を為すつもりはない、事が終われば廷尉に出頭して罪を受けると答えた。
- 己未、天下に大赦した。李傕を揚武将軍、郭汜を揚烈将軍とし、樊稠らを皆中郎将とした。
- 甲子、李傕がもと太尉の黄琬、司徒の王允とその妻子を殺した。人々はこれに涙を流したが遺骸を収める者はなく、允の故吏である京兆の趙戩が允を葬った。
- 上は允を忠であるとし、その孫の王異を安楽侯に封じた。
王允の来歴
- 允は字を子師といい、太原祁の人である。容儀は重々しく、礼に外れることはしなかった。郭林宗は允を宰相の器だと称し、親しく交わった。
- 郡の主簿となったとき、太守の劉偉が宦者の趙津の請託を受けて中都の路拂を五官掾に召そうとした。允は拂が狡猾で不良な人物だとして偉の下知を四、五度も突き返し、鞭杖数十を受けても最後まで屈しなかった。拂は結局廃され、允の名は遠近に轟いた。
- 拂は財に富み賓客数百を抱え、允を深く怨んで常に害そうとした。允の従者は数人にすぎなかったが、拂と出会うたびに允は車中で剣に手をかけて叱りつけ、拂はそのたびに向かってこられなかった。
- 司徒府に辟され、しだいに豫州刺史に遷った。黄巾賊の別党が豫州に起こったとき允はこれを大破した。そのとき賊のもとから中常侍の張譲の書状が見つかり、允はそれを詳しく奏聞した。
- 霊帝は張譲を厳しく責め、譲は謝罪してかろうじて免れた。譲はこれによって允を怨み、霊帝に讒言した。詔で允は徴されて罪を問われることになったが、道中で赦に遭って官に戻った。
- 百余日ののち再び徴された。太尉の楊賜は允に書を送り、張譲の一件で百日のうちに再び徴されたのだから深く考えるべきだと伝えた。允の故吏は涙を流して毒薬を差し出したが、允はそれを棄てて飲まなかった。
- 大将軍の何進が請うたので死一等を減じられ、允は姓名を変えて山野に隠れ住んだ。のちに何進が允を従事中郎に表し、河南尹・太僕に遷った。
- 公輔の位にあって国家の禍乱に遭うと、允は外では取り繕い内では王室のために謀り、大臣としての度量が備わっていた。天子から国中に至るまで允を頼りとし、董卓もまた深く信任していた。
王允の最期をめぐる議
- 卓が死ぬと、允は士孫瑞と卓の部曲を赦すことを議したが、やがて疑って言った。部曲はその主に従っただけだ。今これを悪逆と名指ししたうえで赦せば、かえって深く自ら疑わせることになり、安心させる方法ではない、と。そこで取りやめた。
- ある者が允に説いた。卓の部曲はもとより袁氏を憚り関東を畏れている。もし一挙に兵を解いて関を開けば、必ず一人ひとりが身の危険を感じる。皇甫嵩にその衆を領させ陝に屯させて安んじ、そのうえで徐々に関東と通謀して変化を見るのがよい、と。
- 允は言った。そうではない。関東で義兵を挙げた者は皆われらの同志である。今、険に拠って陝を屯守すれば、涼州の人は安んじても関東の心を疑うことになる、と。
- 呂布が逃れようとして允に、公も去るべきだと言った。允は答えた。国家を安んじるのが自分の第一の願いである。それが叶わなければ身を殺して朝廷に捧げるまでだ。幼い主は自分だけを恃んでいる。危難に臨んでその場しのぎに逃れることは自分はしない。努めて関東の諸公に、国家を念頭に置けと伝えてくれ、と。
黄琬の来歴
- 琬は字を子琰といい、太尉の黄瓊の孫である。五官中郎将となったとき、選挙した者は皆貧しく志を守る人物ばかりだったので、権勢と富のある郎たちがこぞって憎み、琬を党人だと仕立て上げた。琬は免官・禁錮となり、その状態が二十年近く続いた。
- 司空の楊賜は琬を深く敬い重んじ、上書して乱を収める才があると薦めた。これによって徴されて議郎に拝され、青州刺史を代行し、侍中・尚書に遷った。
- 中平の末、涼州が叛き大将軍が出征したとき、軍の調達が足りず、富裕な者の多くが財によって官を得、家から起こっていきなり州郡の長になる者もあった。
- そこで琬は上奏した。太尉の樊稜と司徒の許相はいずれも位を窃み禄を貪り、恥もなくのし上がっただけで匡救の益はなく、必ず公を覆し足を折るような患いを招く。皆罷免して政治の道を清めるべきだ。軍費が急を要するとはいえ、礼義廉恥は国の大本である。選に値しない者を用いるのは、隼が城壁にとまるようなもので国に事を生じる。石を背負って溺れる者を救うようなもので、よく考えねばならない、と。
- ほどなく右扶風に遷り九卿を歴任し、徴されて豫州牧となった。黄巾が横行し民も物も疲弊しているところで、豪傑を招き入れ軍馬を整え、群賊を征討して威声を大いに轟かせた。
- このとき上は下軍校尉の鮑鴻を遣わして葛陂の賊を征討させたが、鴻は軍の徴発にかこつけて官物を盗み、その額は千万を超えた。琬はその不正を糾弾して奏し、鴻を法どおりに処断した。
- 琬は名臣であり、また王允と謀を同じくしていたので、この難に巻き込まれた。
种弗と种邵
- 李傕の兵が長安に入ったとき、太常の种弗は、国の大臣として暴を禁じ侵略を防げず、白刃を宮に向かわせておいてどこへ逃げようかと言い、戦って死んだ。
- 弗は字を潁伯といい、司徒の种暠の子である。弗の子の种邵は使者となったが、かつて董卓の意に逆らって涼州刺史に左遷された。九卿に徴されたとき辞して言った。自分は昔、国に忠を尽くして邪臣に妬まれた。父は身を国に捧げて賊に害された。臣子として残虐と逆賊を除けぬのに、どんな顔で明主にお目にかかれようか、と。三輔の臣はこれを聞いて感じ入り慟哭しない者がなかった。
何顒と鄭泰
- はじめ南陽の何顒と河内の鄭泰は奇抜な計略を好んだ。顒は郭林宗に及んで交わり遊学した。
- 党事が起こると顒は禁錮を受けたので姓名を変えて汝南に亡命し隠れ、行く先々で豪傑と結んで荊州・豫州のあいだで名が知られた。霊帝の末には君子が禍難に遭うことが多く、顒は年に二、三度は密かに洛陽に入り、人のために患難を解いてやった。
- 鄭泰は天下がまさに乱れると見て取り、密かに豪傑と交わり結んだ。家は財に富み田は四百頃あったが、それでも食は常に足りず、名は山東に聞こえた。
- 王室が西遷すると、泰は尚書郎として従って関に入った。当時、京師は飢え乏しく、士人はそれぞれ命を保つこともできなかったが、泰は日々賓客と盛んな会を開き音曲を奏させ、泰を頼って救われた者は非常に多かった。
- 長安が乱れると南のかた袁術に奔り、術は泰を揚州刺史としたが、着任しないうちに卒した。
朱儁と諸将
- 丙子、前将軍の趙謙を司徒とした。
- 尚書令の朱儁が出奔したとき、孫堅とともに洛陽に入り、その後は中牟に屯していた。
- 李傕らは長安を破ったあと、山東が自分たちを図るのを恐れ、また朱儁の名声を畏れた。傕は賈詡の計を用いて人を遣わし儁を徴した。
- 儁の軍吏は皆応じないよう望んだが、儁は言った。君主が臣を召すときは義として駕を待たずに向かうものだ、まして天子の詔ならなおさらである。しかも李傕と郭汜は小僧、樊稠は凡庸な男で、これという遠謀もなく、勢力が均衡しているから内輪もめが必ず起こる。その疲弊に乗じれば事は図れる、と。こうして徴に応じて太僕となった。
秋七月〜九月 人事と諸勢力
- 秋七月、李傕は樊稠を郿に遣わして董卓を葬らせたが、大風と暴雨で流れ込んだ水が墓に入り、その棺椁を漂わせた。
- 庚子、太尉の馬日磾を太傅・録尚書事とした。
- 八月辛未、車騎将軍の皇甫嵩を太尉とした。太傅の馬日磾と太僕の趙岐に節を持たせて関東を鎮めさせた。
- はじめ孫堅が南陽太守の張咨を殺したので、袁術はその郡を占拠できた。南陽は戸口数百万を擁したが、術は奢りと欲をほしいままにし、徴発に際限がなく、百姓はこれに苦しんだ。
- やがて術は袁紹と隙が生じ、また劉表とも折り合いが悪くなり、軍を陳留に入れた。曹操と袁紹が合流して術を撃ち大破した。術は残った衆を率いて九江に奔り、揚州刺史の陳温を殺してその州を領した。
- 李傕らは袁術を後ろ盾にしようとして、馬日磾に命じて術をその場で左将軍・陽翟侯に拝し、節を仮させた。
- 馬日磾と趙岐はともに寿春にいたが、岐は志を守って撓まなかったので術も憚った。日磾は術に求めることが多く、術はこれを侮り、日磾から節を借りて見ると奪ったまま返さず、日磾が去ろうとしても行かせなかった。日磾は自分の節操が趙岐に及ばぬことを恥じ、血を吐いて死んだ。
- 九月、揚武将軍の李傕を車騎将軍・池陽侯とし、司隷校尉を領させ節を仮した。郭汜を後将軍・郿陽侯、樊稠を右将軍・万年侯とした。傕・汜・稠が朝政をほしいままにした。張済は驃騎将軍・平陽侯となり弘農に屯した。
- はじめ董卓は関に入るとき韓遂と馬騰に説いてともに山東を図ろうとした。遂と騰も天下が乱れようとしているのを見て、兵を起こして卓に頼ろうとした。卓が死に、李傕と郭汜が京師を攻め破ると、遂と騰は兵を率いて天子を救おうとした。この月、遂は郿に屯し、騰は鄠に屯した。
- 司徒の趙謙が久しい病により罷めた。甲申、司空の淳于嘉を司徒、光禄大夫の楊彪を司空・録尚書事とした。
冬十月 劉表・唐姫・皇甫嵩
- 冬十月、荊州刺史の劉表が使者を遣わして貢献したので、表を荊州牧とした。
- はじめ弘農王の唐姫は、もと会稽太守の唐瑁の娘である。王が薨じたあと人々が嫁がせようとしたが従わなかった。関中が破れると李傕に掠われたが、自分の身の上を明かそうとしなかった。傕が妻にしようとしても唐姫は承知しなかった。
- 尚書の賈詡がこれを聞き、爵号を加えるべきだとしたので、園に迎え置いて弘農王妃に拝した。
- 李傕は博士の李儒を侍中に挙げた。詔には、儒は以前に弘農王の郎中令として我が兄を追いつめて殺したのだから罪を加えるべきだとあったが、これに対し、董卓の仕業であって儒の本意ではない、無辜の者を罰してはならないと弁じられた。
- 丁卯、日に重なった暈が出た。太尉の皇甫嵩が災異により策免され、光禄大夫の周忠が太尉・録尚書事となった。
皇甫嵩の来歴
- 嵩は字を義真といい、皇甫規の兄の子である。用兵に長け、将としては飲食も宿営も必ず将士を先にし、そのあとで自分が落ち着いた。
- 兵曹の者が賄賂を受け取ったことがあったが、嵩は、あの者はもとより廉潔だから必ず窮乏していたのだろうと言って、自分の銭を出して与えた。その吏は恥じてすぐに自殺した。
- 董卓が入京するとき嵩を城門校尉に徴した。嵩の長史である梁衍が説いた。漢室は微弱で宦官が朝廷を乱し、卓はこれを誅したのに忠を尽くして主に仕えず廃立を恣にしている。今将軍を徴すのは、禍が大きければ身が危うく、小さくても辱めを受ける。卓は洛陽におり天子は西へ来られる。将軍の衆で天子を迎え奉り、海内に命を発し、袁氏が東から迫り将軍が西から迫れば、卓は擒にできる、と。
- 嵩は従わず徴に応じた。有司は卓の意を承けて嵩を吏に下すよう奏し、殺そうとした。嵩の子の堅寿はもとより卓と親しかったので、卓のもとに詣でて嵩の助命を請い、卓は許した。
史論(華嶠曰)
- 華嶠は、父から祖父の華歆のことをたびたび聞いたとして、当時の人が皇甫嵩を功を誇らぬ人物と見ていたことを挙げる。汝南・豫州の戦の功は朱儁に帰し、張角を破った勝利はもと盧植のものだとしたのがそれである。
- 功名は士がまさに重んじるべきものだが、まことに争わずにいられれば天下も争う相手にならず、怨みや禍も深くならない、と論じた。