後漢紀巻第二十六 孝獻皇帝 初平二年 191年

春正月 劉虞擁立の失敗

  • 春正月辛丑、天下に大赦した。
  • 韓馥と袁紹は自ら大将軍を称し、使者を遣わして大司馬の劉虞を帝に推そうとしたが、虞は承知しなかった。さらに承制して封拝を行うよう勧めたが、これも承知しなかった。それでもなお紹とは連携を保った。

二月〜夏四月 董卓の太師就任と入関

  • 二月丁丑、相国の董卓が太師となった。
  • 夏四月、董卓は西へ関中に入った。東中郎将の董越を澠池に、寧輯将軍の段猥を華陰に、中郎将の牛輔を安邑に屯させ、その他の中郎・校尉を諸県に配して数え切れないほどとし、山東に備えさせた。
  • 卓が到着すると公卿以下が出迎え、皆進み出て拝礼したが、卓は礼を返さなかった。
  • 卓は御史中丞の皇甫嵩に、これで屈服したかと問うた。嵩が、明公がここまでになるとは思いもよらなかったと答えると、卓は、鴻鵠にはもとより遠大な志があるが燕雀にはそれが分からぬだけだと言った。嵩が、昔は公とともに鴻鵠であったが、今日は鳳凰に変わられたと返すと、卓は大笑して、早く屈服していればどうして拝礼せずにすんだのかと言った。

尚父の称号と董卓の専横

  • 董卓は太師となったうえ尚父を称そうとし、左中郎将の蔡邕に問うた。
  • 蔡邕は、昔、武王が命を受けたとき太公が太師となって周室を輔け無道を伐ったからこそ天下が尊んで尚父と称した、今の功徳はまことに巍々たるものだが、関東が平定され車駕が西還してから改めて議すべきだと答え、卓は思いとどまった。
  • 卓は金華青蓋の車に乗り、当時の人はこれを竿摩車と呼んだ。上を圧迫するという意味である。
  • 卓の弟の董旻は左将軍、兄の子の董璜は中軍校尉となり、一族が内外の朝廷に並び連なった。三台の尚書以下は呼び出されると卓の府に出向いて案件を申し出、そのうえで施行されるようになった。
  • 郿に塢城を築き、その城壁は長安城と同じ規模とし、三十年分の穀を蓄えて、事が成れば天下に雄拠し、成らなければここを守って一生を終えるに足ると言った。
  • あるとき郿塢へ行くのに、公卿以下が横門の外で送別の宴を開いた。卓は北方から降ってきた者三百余人を誘い出し、席上でまず舌を裂き、あるいは手を斬り、あるいは目をえぐった。死にきらぬ者が杯や机のあいだで転げまわり、居合わせた者は震えて匙や箸を落としたが、卓は平然と飲み食いしていた。
  • 以前、卓は衛尉の張温と酒を飲んだことがあったが、人を使って温が袁術と通謀したと誣告させ、笞で打ち殺した。刑罰は残酷で、愛憎のままに人を害し、冤罪で死んだ者は数千人に及んだ。百姓は嘆き叫び、道行く人は嘆息した。

孫堅の洛陽入りと董卓の評

  • 孫堅は陽人から洛陽に入り、諸陵を修復して、軍を率いて魯陽に還った。
  • 董卓は長史の劉艾に語った。関東の諸将はたびたび敗れており何もできない、ただ孫堅だけは少しばかり大胆だから諸将軍は用心せよ、堅は以前西方に征したがその計略は人並みで、いわれもなく袁氏の小僧どもに従っているのだから結局は死ぬだけだ、と。
  • 劉艾は、堅の用兵は李傕や郭汜に及ばない、堅は以前羌を相手に美陽で戦って死にかけており、何もできないと言った。
  • 卓は、堅はそのとき烏合の兵を率いていたのだし、戦には利鈍があるものだ、卿がいま関東の大勢を論じても結局は何ほどのこともない、ただ袁氏の二人の小僧を殺せば天下は自ずと服する、と言った。

宗廟迭毀の議

  • 建武の初め、宗廟が洛陽に立てられた。元帝は光武にとって父の世代にあたるので、光武は上って元帝を継ぎ、また洛陽に親廟を立てて祭祀するだけにとどめ、名号は加えなかった。
  • 光武が崩じると、中興の主であるとして改めて廟を起こし、尊号を世祖廟とした。元帝は光武にとって禰にあたるので、宗ではないが毀たれなかった。以後これが常となった。
  • 明帝は寝廟を起こさず主を世祖廟の更衣に蔵めよと遺詔した。更衣とは帝王が廟に入るときの便殿である。章帝はその命に背けず、更衣には小さな区別があるとして尊号を顕宗とした。
  • 章帝が崩じたときも先帝の故事どおりに遺詔し、和帝は尊号を粛宗とした。後の帝もこれに倣って皆主を世祖廟に蔵めたので、数が積もって区別がつかなくなった。以後、顕宗はただ陵寝の号となった。
  • 和帝が崩じて尊号を穆宗とした。殤帝が崩じたときは、鄧太后がまだ嬰児であるとして廟に列せず、陵寝で祭るだけにした。
  • 安帝は大臣を殺し太子を廃したので、崩じても祖宗の号を奉る奏がなかったが、建武以来毀たれた例がないという理由で陵号によって恭宗とされた。順帝が崩じて尊号を孝宗とし、沖帝と質帝はいずれも年少で早く崩じたので殤帝の故事に依った。桓帝が崩じて尊号を威宗とし、霊帝が崩じたときは天下が乱れていたので祖宗のことは議されなかった。
  • そこで有司が宗廟の迭毀について議を上げた。
  • 左中郎将の蔡邕の議はこうであった。漢は秦の学問弾圧の後を承けたため、宗廟の制度に周礼を用いず、帝が即位するたびに一廟を立てて七に止まらず、昭穆も定まらなかった。孝元皇帝のとき丞相の匡衡と御史大夫の貢禹が初めてこの議を立て、典礼にそぐわぬものを廃した。孝文帝・孝武帝・孝宣帝はいずれも功徳が盛んなので宗として毀たない。
  • はじめ孝昭帝が孝武の廟を尊崇して世宗と称したときも、中正の大臣である夏侯勝はなお異議を唱えて宗とすべきでないと主張した。孝宣皇帝の代になっても議は定まらず、太僕の王舜と中壘校尉の劉歆が経伝の義に拠って毀つべきでないとし、上はその議に従った。古人が正しさに拠って重んじ慎み、君父を私しなかったことはこれほど徹底していた。
  • のちに王莽の乱に遭い、光武皇帝が命を受けて中興したので廟を世祖と称した。孝明皇帝は政が文帝・宣帝に比すべきものだったので廟を顕宗と称し、孝章皇帝は孝が篤く仁恩が広かったので廟を粛宗と称した。前代に比してこれらは礼にかなっている。
  • しかしそれ以降は政事に釁が多く、権は臣下に称せられ、嗣帝は熱心にそれぞれ至親を尊崇しようとし、臣下は懦弱で夏侯勝のような正論を主張する者がなかった。そのため過ちが際限なく広がった。
  • 今、聖朝が古礼に立ち返って中庸を求めるのはまことに事宜にかなう。孝元皇帝は世の順で第八、武皇帝は第九にあたるので、元帝を考廟として尊び奉り、孝明もそれを踏襲して毀たなかった。しかし今や元帝は廟で九世にあたり、宗でもなく親も尽きているから毀つべきである。恵帝・昭帝・成帝・哀帝・平帝に準じ、五年に再び殷祭を行う。
  • 孝安・孝桓・孝昭・孝和・孝霊は穆の位にあって四時に常に陳ねる。孝和以下の穆宗・恭宗・威宗の号はいずれも省き、先典に従って祖宗と並べてはならないという義を明らかにすべきである。
  • この議は容れられた。

史論(袁宏曰)

  • 光武が元帝を継いだのは正しいというべきである。君臣父子は名教の根本である。
  • では名教はどうして作られたのか。天地の性に準じ自然の理に求め、擬議によって名を定め、因循によって教えを広め、物を弁じ器を成して天下の務めに通じさせるためである。
  • 高下は天地より尚いものはないから貴賤はこれに擬えて物を弁じ、尊卑は父子より大なるものはないから君臣はこれに象って器を成す。天地は窮まりない道であり、父子は変わらぬ体である。窮まりない天地と変わらぬ父子に拠るからこそ、尊卑は永く固まって踰えられず、名教は大いに定まって乱れない。六合に置き宇宙に満ち、今から古に至るまでその名が失われないのはそのためである。
  • 天地の性に背いて人倫の序を定められた例はなく、自然の理に背いて治体を明らかにできた例もない。
  • 学の浅い者は名教の本を解さず、目先の用に引かれて自然の性を惑わせ、君臣を父子と同じと見て兄弟でも位を伝えられると考え、兄弟の友愛を昭穆と同列に置いてしまう。これは自然の本に背き自然の性を滅ぼすもので、まことに哀しむべきことである。
  • 天地は霊妙で長らえるとはいえ否泰の変がないわけではなく、父子は自然の理とはいえ夭折や断絶がないわけではない。だから父子相承は至順の極みであり、兄弟相及は変異の極みである。変には正を求め、異には順を本とする。
  • そうしてこそ百世を経ても高卑の位は保たれ、変通を経ても昭穆の序は乱れない。ここから見れば、君臣父子の道は忘れてよいものではない。

蓋勲の事績と死

  • 董卓が司徒の王允に、司隷校尉にふさわしい人物を得たいが誰がよいかと問うた。王允は、ただ蓋京兆(蓋勲)がいるのみだと答えた。卓は、この人物は明智に余りある、それゆえ雄職を委ねてはならないと言い、勲を越騎校尉とした。
  • 卓はさらに勲が兵を握るのを恐れて潁川太守として外に出したが、ほどなく京都に徴し還した。
  • 公卿は卓に会えば皆拝謁したが、勲だけは長揖しただけで卓と論争した。周囲の者は皆顔色を失ったが、勲の意気は平然としていた。
  • 以前、河南尹の朱儁がたびたび卓に軍事を述べたとき、卓はわしは将として百戦百勝だ、みだりに説いてわしの刀鋸を汚すなと言った。勲は、昔、武丁のような明君でさえ箴諫を求めた、明公はまだ武丁に及ばないと言った。卓は、戯れただけだと詫びた。
  • 勲は剛直だったが内心では卓を恐れ、思うようにならず、背に疽を発して卒した。年五十一。遺言では、先帝に報いるすべもなかったことを恥じ、賻贈を受けるに忍びないと述べた。
  • 卓は内心恨んでいたものの外には寛厚を示し、上表して東園の秘器を賜い、礼どおりに送った。

蓋勲の来歴

  • 蓋勲は字を元固といい、燉煌広至の人である。孝廉に挙げられて漢陽長史となった。
  • もともと武都の蘇正和と不仲であった。正和が州従事となって武威太守が権貴を頼んで貪横をほしいままにしていると弾劾したとき、涼州刺史の梁鵠は太守の外戚としての権勢を恐れ、正和を殺して身を守ろうとし、勲に相談した。
  • ある者が、この機会に仇を報いよと勧めたが、勲は、事を謀って良臣を殺すのは忠ではなく、危うきに乗じるのは仁ではない、忠と仁を棄てれば人は自分の食い残しさえ食うまいと言った。
  • 勲は梁鵠を諫めた。鷹や鸇に餌を与えて繋ぐのはその猛々しさを用いるためだ、猛いからといって煮てしまってはなんの用があろうか、と。鵠はその言に従った。
  • 正和は喜んで勲に会おうとしたが、勲は、自分は梁使君のために謀ったのであって蘇正和のためではないと言い、以前どおり彼を怨んだ。
  • 黄巾が起こったとき、もと武威太守の黄儁が徴されて期限に遅れ、梁鵠は上奏して儁を誅そうとしたが、勲が弁じて免れさせた。儁が黄金二千斤を勲に贈ると、勲は、あなたの罪は八議にあたるから弁じたまでだ、自分が評判を売るとでも思うのかと言い、最後まで受けなかった。
  • 涼州刺史の左昌が軍法にかこつけて数千万を着服したとき、勲が諫めたが聞かず、かえって怒って勲を河陽に屯させ軍法によって罪に落とそうとした。しかし勲はたびたび戦功を立て、詔書がその労を慰めた。
  • 辺章が叛いて左昌を囲み危急に陥ると、昌は檄をもって勲を召した。勲ははじめ従事の辛曾・孔常とともに河陽に屯していたが、曾と常は疑って檄に応じようとしなかった。勲は怒って、昔、荘賈が期に遅れたとき穣苴は鉞を振るった、今の従事は監軍より重い身分だとでもいうのかと言った。常は恐れて従った。
  • 勲は冀に至り、辺章らを直接責め、背叛の罪を詰った。彼らは皆、左使君が早く君の言に従っていれば兵を向けられても身の潔白を明かせただろうが、今や我らの罪は重すぎてもはや降ることはできないと言い、皆涙を流して去った。
  • ちょうど叛いた羌が護羌校尉の夏育を畜官で囲んだ。勲は州郡の兵を合わせて育を救おうとしたが、孤磐で羌に破られた。勲は三か所に傷を負い、前陣の多くが戦死した。勲は人に木の表を書かせ、国家が自分をここで屍とするなら、と記した。
  • 羌の滇吾はかねて勲に厚遇されていたので、兵をもって衆を遮り、蓋長史は清廉な賢者だ、これを殺す者は天に背くと言った。勲は仰いで罵り、死に損ないの反逆者め、何を知っている、早く殺せと言った。衆は顔を見合わせて驚いた。
  • 滇吾が馬を勲に与えると、勲は自分は死ぬつもりで去らないと言った。衆は、金城では君に羊一万頭、馬一千匹の賞がかかっている、君と一つになりたいと言ったが、勲はただ、自分は死ぬだけで他は知らないと言い放った。
  • 羌はついに勲を囚えたが、勲の言葉と気勢は屈しなかったので、羌は害することができず郡へ送り還した。
  • そこで勲は漢陽太守となった。民が飢えて共食いするありさまだったので、勲は穀を調達して給しようとしたが、富家の多くは隠して出そうとしなかった。勲が、自分の罪だと言って自家の穀を出して率先すると、郡中はこれを聞き、督促せずとも冀の倉に送られた穀が二千余斛に達し、勲のおかげで生き延びた者は千余人にのぼった。

六月〜秋七月 地震と人事

  • 六月丙戌、京師で地震があった。董卓が蔡邕に問うと、邕は、地震は陰が盛んで大臣が制を踰えたために起こる、公が青蓋車に乗るのを遠近が不適当と見ていると答えた。卓は従い、金華皂蓋の車に乗った。
  • 秋七月、司空の种弗が地震によって策免された。
  • 癸卯、光禄勲の淳于嘉が司空となった。

韓馥、冀州を袁紹に譲る

  • 董卓が関中に入ったのち、袁紹は延津に軍を還し、潁川の荀諶を遣わして冀州刺史の韓馥を説かせた。
  • 荀諶は言った。公孫瓉が勝ちに乗じて南下し諸郡がこれに応じている、袁車騎も軍を東に向けており、その意図は測りがたい、将軍のために危ぶんでいる、と。
  • 馥がどうすればよいかと問うと、諶は答えた。公孫瓉は燕・代の兵を率いてその鋒先は当たりがたく、袁氏は一時の傑物で必ず将軍の下風に立つまい。冀州は天下の重い資である。二人の雄が力を合わせて城下で兵を交えれば、危亡はたちどころに待つばかりだ。袁氏は将軍の旧知であり、しかもすでに同盟している。今の将軍のための計としては、州を挙げて袁氏に譲るに越したことはない。袁氏が冀州を得れば瓉は争わず、必ず将軍に厚く恩を感じる。冀州が親友の手に入れば、将軍には賢に譲った名があり、身は泰山より安らかである。どうか疑われぬように、と。
  • 馥はもとより臆病だったのでこの計をもっともだとした。
  • 馥の長史の耿武、別駕の閔純、治中の李歴、騎都尉の沮授が諫めた。冀州は辺鄙とはいえ甲兵は百万、穀は十年を支える。袁紹は孤立した客将で軍は窮しており、我らの鼻息をうかがう身、股掌の上の嬰児のようなもので、乳を絶てばたちまち餓死させられる。それをどうして冀州を与えようとするのか、と。
  • 馥は、自分は袁氏の故吏であり、才も本初に及ばない、徳を量って譲るのは古人の貴んだところだ、諸君はどうしてそれを咎めるのかと答え、子を遣わして印綬を送り、紹に譲った。

沮授の献策と紹の割拠構想

  • 紹は冀州を得ると、沮授を招いて別駕従事とした。
  • 紹は授に語った。今、賊臣が変を起こして朝廷は移された。自分は代々寵を受けてきたので、命を尽くして死力を致し漢室を回復したい。しかし桓公は夷吾なくして覇を成せず、越王は范蠡なくして国を存し得なかった。今、君と力を合わせ心を一つにして社稷を安んじたい、と。
  • 沮授は進み出て言った。将軍は弱冠で朝に登り名を海内に播き、廃立の際には忠義の憤りを発し、董卓も凶暴でありながら兵を加えられなかった。昔、藺相如が秦を叱り、晏嬰が荘公に哭したというが、将軍に比べれば喩えるにも足りない。単騎で出奔すれば卓は恐れを抱き、河を渡って北へ行けば渤海が首を垂れた。一郡の兵を擁して冀州の衆を取り、威は河朔を震わせ名は天下に重い。
  • 続けて授は言った。黄巾は散り乱れ黒山は跋扈しているが、軍を挙げて東に向かえば青州は定まり、返って黒山を討てば張燕は滅ぼせる。北へ師を回せば劉虞は必ず亡び、戎狄を震え上がらせれば匈奴は従う。大河の北を横に押さえて四州の地を合わせ、英雄を用い百万の衆を擁して、長安に大駕を迎え洛邑に宗廟を復し、天下に号令して従わぬ者を討つ。これをもって鋒を争えば誰が防げようか。数年のうちにこの功は難しくない、と。
  • 紹は喜び、それこそが自分の本心だと言い、ただちに授を奮武将軍に表し、諸将を監護させた。

曹操と荀彧

  • 袁紹は曹操を東郡太守とした。
  • はじめ潁川の人である荀彧、字は文若は、孝廉に挙げられて亢父令となった。天下が乱れようとしているのを見て官を棄てて家に帰り、父老に説いた。潁川は四方から攻められる地で、天下に変があれば常に兵の要衝となる。密には堅固さがあっても小さな寇を避けられるだけで大難を防ぐには足りない、早く郷里を去るべきだ、と。しかし多くの者は土地に執着して従わなかった。
  • 韓馥が騎兵を遣わして迎えようとしたが、折しも袁紹が冀州を襲って手中にし、彧を上賓の礼で遇した。彧の弟の荀諶や同郡の辛評・郭図は皆紹に仕えたが、彧は紹が成功できないと見てとり、紹を去って曹操に帰した。
  • 操は彧に会って喜び、わが子房だと言って司馬とした。
  • 当時、董卓の兵は強く山東は震え恐れていたが、彧は操に説いた。董卓の暴虐はすでに甚だしく、必ず乱によって終わる、何もできまい、と。操はこれをよしとした。

冬 人事と論功行賞

  • 丙寅、太尉の趙謙が久しい病により策罷された。
  • 辛酉、太常の馬日磾が太尉となった。
  • 公孫瓉が劉備を平原相とした。
  • 十二月、関中まで従ってきた者の功を記録し、それぞれ差を設けて封侯・賜爵した。司徒の王允は温侯・食邑五千戸とされたが、固く辞退して受けなかった。
  • 尚書僕射の士孫瑞が王允に説いた。天子が土地を裂き爵を班つのは功に報いるためである。董太師と位を並べともに封じられているのに、独り高節を励むのは、愚かながら心穏やかでない、と。
  • 王允はその言を容れ、二千戸を受けた。

この年の異事

  • この年、長沙・武陵の人で死んで一か月ののちに蘇生した者があった。占いでは、至陰が陽となり下民が上となる、微賤の身から起こる者が現れる兆しである、とされた。