陳倉の攻防と皇甫嵩・董卓の論争
- 春正月、王国が陳倉を攻めた。董卓は救援に行こうとして皇甫嵩に言った。智者は時機に後れず、勇者は決断を先延ばしにしない。速やかに救えば城は保たれ、救わなければ城は滅びる。何をためらうことがあろうか、と。
- 皇甫嵩は反対した。そうではない。用兵の巧みな者は軍を全うするのを上とし、軍を破るのはその次だ。百戦百勝も、戦わずして人の兵を屈するのには及ばない。最上の兵は敵の謀を伐つのだから、可と見て進み、難しいと知れば退く。速戦は下策である。
- まず自分を破られない態勢に置き、敵に隙ができるのを待つ。破られないかどうかは我にあり、勝てるかどうかは敵にある。敵は守りが足りず、我は攻めに余裕がある。余裕のある者は九天の上にあり、足りない者は九地の下に陥る。
- 陳倉は小城だが守備は固く、九地に陥ってはいない。王国の兵は攻めても我らが落とせないような相手ではなく、九天の勢いを持ってもいない。九天の勢いでない者が攻めれば害を受け、九地に陥っていない者を攻めても落とせない。王国は今すでに害を受ける地に陥り、陳倉は落ちない城を保っている。我らは兵を煩わせずに完全な勝利の功を得られる。何を救う必要があろうか、と。
- 皇甫嵩は董卓の言に従わなかった。
- 王国は陳倉を八十余日囲んだが、城中は堅く守って落とせず、賊の兵は疲れ果てて果たして自ら囲みを解いて去った。
- 皇甫嵩が兵を進めて追撃しようとすると、董卓は反対した。いけない。兵法に「窮した敵を追い詰めるな」「帰る軍を追うな」とある。今、王国を追うのは帰る軍を追い、窮した敵に迫ることだ。窮した獣も闘い、蜂や蟻でさえ毒を持つ。まして大軍においてはなおさらだ、と。
- 皇甫嵩は反論した。そうではない。先に撃たなかったのはその鋭鋒を避けたためで、今撃つのはその衰えを待ったからだ。撃つのは疲れて崩れた敵であって、帰る軍ではない。王国の兵はまさに逃げようとしていて闘志がない。整った兵で乱れた敵を撃つのだから、窮した敵ではない、と。
- 皇甫嵩は董卓を殿軍とし、自ら王国と戦って大破し、これを斬った。これにより董卓は皇甫嵩を恨み、ひそかに隙が生じた。
董卓の抗命と皇甫酈の献策
- 董卓を少府に徴したが、董卓は就こうとせず、上書したうえで前将軍の職務をそのまま行った。ついで董卓を并州牧とし、兵は皇甫嵩に属させることにしたが、董卓はまた上書して兵を率いて任地に赴きたいと願い出た。
- 皇甫嵩の兄の子である皇甫酈が皇甫嵩に諫めた。本朝が政を失った今、危うきを安んじ傾くのを支えられるのは大人と董卓だけです。すでに怨みが結ばれ、二人が共に立つことはできません。先人の言うとおり、兵は兵家の重んじるところ。董卓は詔を受けたのだから兵を手放すべきなのに、将士に上書させて自ら請うたのは命に逆らうものです。京師の政が乱れていると見越して躊躇しているのは姦心を抱いている証です。この二つはどちらも刑して赦さぬ罪。董卓は凶暴で親しむ者もなく、将士も心服していません。公は元帥として国家の威を仗にこれを討てば、上は忠義を顕し、下は姦凶を除くことになります。これこそ斉の桓公・晋の文公の挙です、と。
- 皇甫嵩は、独断で事を行うのもまた罪だ、それより明らかに奏上して朝廷に裁かせるほうがよい、と答えた。
- 天子は詔で董卓を責めたが、董卓は詔を受けず、五千騎を選んで河津から渡ろうとした。
蹇碩の謀と霊帝の死
- 上軍校尉の蹇碩は大将軍何進の兵が強いのを憎み、何進を外に出しておいて隙をつこうと考え、常侍たちと謀って霊帝に、何進を辺章・韓約の討伐に向かわせるよう勧めた。霊帝は従い、何進に戎車百乗と虎賁・斧鉞を賜った。何進もその企みを察し、中軍校尉の袁紹に東方へ行かせて徐州・兗州の兵を徴発させ、出発を引き延ばした。
- 三月己丑、光禄の劉虞を司馬とし幽州牧を領して張純に当たらせた。劉虞は公孫瓚に張純を撃たせ、大いに破った。張純の食客である王政が張純の首を斬って降伏した。劉虞を襄賁侯、公孫瓚を都亭侯に封じ、ともに北辺を鎮めさせた。
- 夏四月、太尉の馬日磾が罷免された。丙午朔、日食があった。
- 丙辰、霊帝が嘉徳殿で崩じた。
- このとき蹇碩は宮中にいて大将軍何進を誅そうとし、人を遣って何進を迎え、事を相談したいと言わせた。何進が車を出して向かうと、司馬の潘隠が出迎えて目配せしたので、何進は馬を駆って引き返し、百郡邸に駐屯して病と称し宮中に入らなかった。
少帝の即位
- 戊午、皇子の弁が帝位に即いた。太后が朝に臨み、天下に大赦し、皇弟の協を渤海王に封じた。
- 霊帝はたびたび皇子を亡くしていた。何太后が生んだ皇子弁は史道人の家で養われたので史侯と呼ばれ、王貴人が生んだ皇子協は董太后の宮で養われたので董侯と呼ばれた。
- はじめ大臣が太子を立てるよう請うたが、弁は軽佻で威儀がなく宗廟の主とするに足りないとされた。しかし何后には寵があり、大将軍何進の権も重かったので、久しく決まらなかった。
- 霊帝は臨終にあたり、協を上軍校尉の蹇碩に託した。協は幼かったが喪に際して深く哀しみ、それを見た百官は感じ入って涙した。
- 壬戌、詔を下した。朕は微賎の身で海内に君臨し、朝夕憂え懼れて、どうすればよいかわからない。天・地・人の道はその働きが三つにあり、必ず輔佐を得てその功を明らかにする。後将軍の袁隗は度量が寛く重厚で、代々忠実である。今、袁隗を太傅・録尚書事とする。朕はしばらく喪に服するので、諸侯はそれぞれ職を果たして朕の意に応えよ、と。
蹇碩の誅殺
- 上軍校尉の蹇碩は、帝が軽佻で徳がなく、二人の外戚は虚名を修めることを好んで股肱の才がなく、社稷を安んじられないと考え、何進らを誅して渤海王を立てようとし、常侍の趙忠・宋典に書を送った。
- その書は、大将軍兄弟が国の威権を握り、天下の党人とともに宦官を誅そうとしている、自分には兵があるのでまだためらっているが、その意図からすればまず自分を誅し、次に諸君に及ぶだろう、今、私の讐を除いて公家を輔けたい、しかし主上が新たに崩じ、大行の遺体が前殿にあって、側近はみな悲しみ葬送に心を向けている、自分に謀策があってもその成否は分からない、というものであった。
- 趙忠と宋典は蹇碩の書を大将軍何進に告げた。何進は諸常侍を誘い、共に蹇碩を誅そうとした。ある者は、蹇碩は先帝が置いた者で、先帝が頼みにした人物だから誅すべきでないと言った。しかし中常侍の郭脉は何進と同郡で、日ごろ何進の子弟を養育していたので、「何進は自分が世に出してやった者だ、異心などあろうか、直ちに従ってよい」と言った。
- 庚午、上軍校尉の蹇碩が下獄して誅され、その兵はすべて何進に属した。
何進と袁紹の宦官誅殺の謀
- 中軍校尉の袁紹が何進に説いた。黄門・常侍が権を握って久しく、永楽太后と通謀している。禍が及ぼうとしている。将軍は大計を立てて天下のために患いを除くべきだ、と。
- そこで何進と袁紹はともに宦官を除く謀を進めた。何進は袁紹と虎賁中郎将の袁術を厚く遇し、それによって天下の傑物、陳紀・荀攸・何顒らを招き寄せて腹心とした。
- はじめ驃騎将軍の董重と大将軍何進は権勢を争って互いに害となっていた。宦官は董重に味方して党助とした。永楽太后も政事に関わろうとしたが、何后は聴かなかった。永楽后は怒って、お前は大将軍を頼みにするのか、驃騎に命じて大将軍の首を斬らせるなど手のひらを返すようなものだ、と言った。何后はこれを何進に告げた。
- 五月、何進は三公とともに、藩国の后は京師に同居しないという故事を奏上し、永楽宮を本国に還すよう請うた。こうして驃騎将軍の董重は下獄して死んだ。永楽后は恐れて急死し、人々は何后が殺したのだと思った。
- 袁紹はまた何進に説いた。先の竇氏の敗北は、ただ言葉が漏れたことと、五営の兵に頼ったためである。五営はみな宦官を畏れていたのに竇后がこれを用いたので、兵は叛き逃げ、自ら破滅を招いた。今、将軍には帝の伯父としての尊位があり、二府ともに精兵を領し、部曲の将吏はみな英俊で死力を尽くすことを喜んでいる。事は掌中にあり、天の助ける時である。功が顕れ名が高まって後世に伝われば、周の申伯など言うに足りない、と。
- 何進が太后に言うと、太后は、宦官が禁兵を領するのは漢家の故事で廃せない、しかも先帝が世を去ったばかりなのに、どうして自分がしゃちほこばって士人と向かい合って事を共にできようか、と言った。
- 何進は太后の意に従い、放縦な者だけを誅そうとした。袁紹は、宦官は至尊の側近くにあり、今廃滅しなければ後にいっそう大きな患いとなると主張した。
- はじめ何進は身分が低く貧しく、宦官たちに依って貴い地位を得たので、内心では恩を感じており、一方で外では大きな名声を好んで袁紹らの計に従おうともし、長く決断できなかった。
- 太后の母の舞陽君と、弟の車騎将軍何苗が何進に言った。はじめ南陽から出てきて内宮に依って富貴を得たのだ。国家の事も容易ではない。よく考えよ。覆した水は元に戻せず、後悔はいつも後から来る、と。
- 何苗は宮中に入ってさらに太后に、大将軍はもっぱら側近を誅して朝権を独占しようとしている、と言い、太后は疑いを抱いた。
- 袁紹はこれを聞いて恐れ、また何進に説いた。形勢はすでに露見している。将軍はなぜ早く決断しないのか。事が長引けば変が生じ、また竇氏の二の舞になる、と。
- そこで何進は袁紹を司隷校尉、王允を河南尹とし、武猛都尉の丁原と并州刺史の董卓に兵を率いて京師へ向かわせ、太后を脅そうとした。
- 尚書の盧植は、宦官を誅すのに外から兵を徴す必要はない、しかも董卓は凶悍で精兵を擁しており、必ず制御できないと述べたが、何進は従わなかった。
- 丁原は数千人を率いて河内を侵し、官府や民家を焼き、宦官を誅すためだと称した。それでも太后は悟らなかった。
霊帝の葬送と董卓の上京
- 六月辛酉、孝霊皇帝を文陵に葬った。
- 秋七月、渤海王の協を陳留王に移した。
- 董卓は澠池に到って上書し、中常侍の張譲らが寵を恃んで海内を乱している、昔、趙鞅は晋陽の兵を興して君側の悪を除いたと述べ、鐘鼓を鳴らして洛陽へ向かった。
- 何進は諸黄門に、天下が騒がしいのはまさに諸君のせいだ、今、董卓が来ようとしている、諸君はそれぞれ封国に赴いてはどうか、と言った。そこで黄門たちはそれぞれ里の宿舎に下がった。
- このころ何進の謀はかなり漏れており、黄門たちはみな恐れて変を起こそうと考えた。
- 張譲の子の嫁は太后の妹であった。張譲は嫁に叩頭して言った。老臣は罪を得たので新婦とともに私邸に帰るべきだが、累世の恩を受けてきた身である。今、宮殿を離れるにあたって名残惜しい。もう一度入直して、しばらく太后陛下のお顔を仰ぎたい。そののち溝や谷に退き、死んでも恨まない、と。
- 張譲の嫁が舞陽君に伝え、舞陽君が太后に申し上げたので、詔で諸常侍はみな再び入直することになった。
何進の殺害と宦官の壊滅
- 八月庚寅、太白が心星を犯した。
- 戊辰、大将軍の何進が太后に申し上げて事を決しようとし、諸常侍をすべて誅して三署の郎をその後任に据えようと謀った。
- 中常侍の張譲と段珪は語り合った。大将軍はいつも病と称して喪にも葬にも臨まなかったのに、今にわかに省中に入るのは何のためか。竇氏の企てがまた起こるのか、と。そして侍者に立ち聞きさせた。ひそかに何進の話を聞き取り、省の戸口の下に出て坐った。
- 張譲が何進に言った。天下が憤っているのは我々だけのせいではない。先帝はかつて太后と不仲になり、危うく破局に至ろうとしたが、我々が涙して取りなし、それぞれ家財を千万近くも出して礼を整え、主上の意を和らげたのだ。ただ卿の家に身を寄せたかっただけである。今、なぜ我々の一族を根絶やしにしようとするのか、あまりにひどいではないか。卿は省内が濁り穢れていると言うが、公卿以下で忠清なのはいったい誰か、と。
- そこで尚方監の渠穆が剣を抜いて何進を斬った。
- 段珪と張譲は詔を偽って、元太尉の樊陵を司隷校尉、元司空の許相を河南尹とした。尚書はその詔を疑い、大将軍に出てきて議論してほしいと請うた。中黄門は何進の首を尚書に見せ、「何進は謀反したので誅された」と言った。
- 何進の部曲将である呉匡は兵を率いて外におり、何進が誅されたと聞いて兵を宮中に入れようとしたが、門は閉ざされていた。虎賁中郎将の袁術が南宮の青瑣門を焼き、段珪らを追い出そうとしたが出てこなかった。段珪らは太后・天子・陳留王を擁して北宮の崇徳殿へ移った。
- 何苗は何進の死を聞いて朱雀闕の下に兵を並べた。何進と何苗はもとより仲が良くなく、何進が死んだので呉匡は何苗に害されることを恐れ、こう言った。大将軍は諸常侍を誅そうとし、車騎将軍はそれを望まなかった。今、大将軍が死んで車騎将軍が生きている。大将軍を殺したのは車騎将軍だ。吏士は大将軍のために復讐できるか、と。
- 何進は日ごろ吏兵に恩があったので、みな涙して死を願った。呉匡は血をすすって誓い、兵を率いて何苗を攻め、闕の下で戦って破り、何苗の首を斬った。
- そこで司隷校尉の袁紹は、偽の司隷校尉樊陵と河南尹許相を斬り、兵を率いて宦官を捕らえ、老若を問わずみな誅した。死者は二千余人に上った。そして兵を率いて宮中に入った。
- 段珪らは追い詰められ、再び天子と陳留王を連れ出し、夜に小平津へ至った。六璽は携えていなかった。
- このとき宮中は乱れ、百官で従う者はなく、ただ河南部掾の閔貢が十余人を率いて従った。そこへ尚書の盧植が至り、剣を按じて段珪を責めた。段珪らは涙して謝罪した。さらに追手が至ると、段珪らは主上に「臣らが死ねば天下は大いに乱れましょう」と申し上げ、自ら黄河に身を投げた。
董卓の入京と兵権の掌握
- 辛未、帝が宮に還った。公卿・百姓が道で出迎えた。并州牧の董卓がちょうど到着し、帝が城外にいると聞いて単騎で北芒に迎えた。
- 董卓が帝に話しかけても応対できなかったが、陳留王と話すと禍乱の経緯にまで及んだ。董卓は陳留王を賢しとし、廃立の意を抱いた。
- この日、崇徳殿に行幸し、天下に大赦した。六璽は取り戻したが、伝国璽は失われた。
- 武猛都尉の丁原が河内の兵を率いて何氏を救い、執金吾に任じられた。
- 何進兄弟が死んで、その部曲は属する所を失い、みな董卓に帰した。董卓は丁原の部曲司馬である呂布に丁原の兵をすべて併呑させた。こうして京師の兵権は董卓が最も強くなった。
- これより先、何進が遣わした騎都尉で太山の人の鮑信も募兵してちょうど到着していた。鮑信は袁紹に、董卓は強兵を擁して異心がある、今早く図らなければ制せられてしまう、到着したばかりで疲れているうちに襲えば擒にできる、と言ったが、袁紹は董卓を畏れて動かず、鮑信はそのまま郷里へ帰った。
董卓の司徒就任と廃立
- 六月から降り続いた雨は九月になってようやく止んだ。董卓は有司にほのめかして長雨を理由に司徒の丁宮と司空の劉弘を免じさせ、自ら代わって司徒となり、節鉞と虎賁を仮された。
- 癸酉、董卓は司隷校尉の袁紹に言った。人主は賢明な者を立てるべきで、天下に定まったやり方などない。霊帝のことを思うたびに憤りを覚える。今、董侯を立てたいが、史侯に勝るかどうかは分からない。当面はそうしよう。劉氏の血筋など残しておく必要もない、と。
- 袁紹は、今上には天下を害するような不善はありません、明公が礼に背いて意のままに嫡を廃し庶を立てれば、四海は明公の議に従わないでしょう、と答えた。董卓は叱って、豎子め、天下の事は我にある、我がやろうとすれば誰が従わないか、と言った。袁紹は刀を横たえて長揖し、天下の健者は董公だけではない、と言い、そのまま出て冀州へ奔った。
- 董卓が廃帝の議を太傅の袁隗に示すと、袁隗は議のとおりでよいと答えた。
- 九月甲戌、董卓は崇徳殿に群臣を集めて言った。大なるは天地、次は君臣、これが治の基である。今の皇帝は暗弱で、宗廟に奉り天下の主とするに足りない。伊尹・霍光の故事に依って陳留王を立てたいがどうか、と。公卿以下はみな恐れて答えられなかった。
- 盧植は尚書に依拠して反論した。太甲は立ったが道理に明るくなかったので伊尹が桐宮に放った。また昌邑王は即位して二十七日で罪過が千条に及んだので霍光が廃した。今上は年若く、行いに落ち度はない。この前例に比すべきものではない、と。
- 董卓は激怒して盧植を誅そうとしたが、議郎の彭伯が、盧尚書は海内の大儒で天下の望みです、まずこれを害せば天下が震え怖れます、と諫めたので思いとどまった。
- この日、董卓は太后と群臣を脅して帝を廃し、弘農王とした。策書が読まれると太后は涙を流し、群臣は誰も口を開かなかった。
- 丁宮が言った。天が漢室に禍を下し、喪乱が甚だしい。昔、祭仲は忽を廃して突を立て、春秋はこれを善しとした。今、大臣が適切さを量って社稷のために計るのは誠に天心に合う。万歳を称すべきだ、と。
- 太傅の袁隗が帝の璽綬を解き、陳留王を皇帝に立てた。年は九歳であった。太后は永安宮に遷された。
史論(袁宏曰・丁宮)
- 丁宮は人と言えない。たとえ伊尹のような正当な事に遇っても、なお涙を流しながら従うべきものである。まして君を陵辱し、その悪を助けて讃えるとは何事か。
- 仁義は人の心にもともと備わっているもので、その濃薄が同じでないから、至る者と至らない者がある。至る者は、君や親の危難にあたって、体が首を守るように振る舞う。至らない者でも、なお子や女に対する愛情くらいはある。これほどのことに何の情も動かない者は、人倫に加わる資格がない。
盧植の最期
- 盧植は病と称して退き、近くの関から出た。董卓は人を遣って殺させようとしたが間に合わず、盧植は上谷に隠れ、数年後に病で亡くなった。
- 盧植は字を子幹といい、涿の人である。扶風の馬融に師事し、北海の鄭玄と親しかった。学問は章句にこだわらず、その旨をことごとく突き詰めた。
- 身長八尺二寸、剛毅で節操が大きく、常に嘆じて世を救う志を抱いた。安易に迎合して身を全うすることをせず、言論は率直で、文辞を好まず、酒を一石飲んでも乱れなかった。
- 馬融は后妃の家であったので管弦や歌舞が絶えず目の前にあったが、盧植は数年侍坐して一度も目をやらなかった。馬融はそれでいっそう敬い、格別に扱った。
- 学業を終えて辞し帰ると、門を閉ざして教授し、州郡の招きにも応じなかった。建寧年間に博士として徴され、九江・廬江太守に補せられ、政治は清らかで大局を弘めることに努めるだけであった。病で官を去り、議郎に徴されて拝任し、蔡邕・楊彪らとともに東観で漢紀の補訂・続修にあたった。
- 盧植は臨終に子に命じ、単衣で納棺し土穴に葬るよう言い、子はそのとおりにした。
何太后の死と董卓政権
- 丙子、太后の何氏が崩じた。董卓が殺したのである。
- 乙酉、司空の董卓が太尉となった。
- 丙申、太中大夫の楊彪が司空、豫州牧の黄琬が司徒となった。
- 冬十一月乙巳、霊思何皇后を葬った。白波賊が河東を侵した。
- 十月、太尉の董卓が相国となり、董卓の母に池陽君の爵を与えた。司徒の黄琬が太尉、司空の楊彪が司徒、光禄勲の荀爽が司空となった。
- 董卓は無道であったが、外向きには賢者を礼遇することを看板とし、黄琬・荀爽の登用も民望に従ったものであった。また侍中の周毖と城門校尉の伍瓊に、汚れた者を淘汰させ、埋もれた人材を抜擢させた。
- こうして尚書の韓馥を冀州に、侍中の劉岱を兗州に、陳留の孔胄を豫州に、潁川の張咨を南陽太守に、東平の張邈を陳留太守に任じた。
蓋勲と董卓
- はじめ董卓が兵を率いて東へ向かったとき、京兆尹の蓋勲は、貪欲な者は同類を損なうものだ、京師には必ず変が起こる、と言って備えをした。
- 董卓が帝を廃すると、蓋勲は董卓に書を送って言った。昔、伊尹や霍光は権をもって功を立てたが、それでも人は寒心した。足下のような小者にどうして堪えられよう。祝う者が門に立ち、弔う者が家の前にいる。慎まずにいられようか、と。董卓は書を受け取って大いに憚った。
- このとき皇甫嵩はなお三万余人を扶風に擁していた。蓋勲はひそかに皇甫嵩に董卓討伐を持ちかけた。董卓もまた蓋勲を深く忌み、人を遣って慰撫させ、そのうえで蓋勲を議郎に徴した。