後漢紀巻第二十五 孝靈皇帝 中平五年 188年

大赦と星変

  • 春正月丁酉、天下に大赦した。太尉の曹嵩が罷免された。
  • 二月、星孛が紫宮に現れた。
  • 三月、少府の樊陵が太尉となった。

耿鄙の敗死と傅燮の諫言

  • 夏五月、涼州刺史の耿鄙が王国を撃って敗れた。
  • 先に耿鄙が六郡の兵を集めて王国を討とうとしたとき、漢陽太守の傅燮が諫めた。使君が政を執ってまだ日が浅く、民は教化を知らない。孔子も「教えざる民を戦わせるのは、これを棄てるというのだ」と言った。教えていない民を率いて大隴の険を越えれば、賊は大軍が来ると聞いて万人が心を一つにし、その鋒先は当たり難い。万一内部で変が起これば悔いても及ばない。
  • むしろ軍を休めて徳を養い、賞罰を明らかにして民に戦を教えるべきだ。賊は寛容を見て我らを臆病と思い、悪党どもが互いに勢いを争って必ず離反する。そのうえで教えた民を率いて仲違いした賊を討てば、功は立つ。今、万全の福を取らずに危うい敗北の禍に飛び込むのは、使君のために取らない、と。
  • 耿鄙は従わず、陣に臨むと果たして前鋒が敗れ、耿鄙は別駕に殺された。

傅燮の死

  • 王国はそのまま漢陽太守の傅燮を囲んだ。このとき北方の胡騎数千が城外にいて、みな叩頭し涙を流して、傅燮に郡を棄てて郷里へ帰るよう勧めた。
  • 子の傅幹が進言した。国家は昏乱し、賢人は退けられている。大人は正しいがゆえに朝廷に容れられない。今、天下は叛き、兵は郷里を守るにも足りない。羌胡で大人の恩を受けた者たちが郡を棄てて帰らせようとしているのですから、どうかお考えください。ゆっくり郷里へ帰り、賢士大夫の子弟を率いてこれを輔けてください、と。
  • 言い終わらぬうちに傅燮は嘆じて言った。お前は私が必ず死ぬと分かっているのか。聖人は節に達し、その次の者は節を守る。殷の紂の暴虐に対し、伯夷は周の粟を食まずに死に、孔子はこれを賢とした。今の朝廷は殷紂ほどひどくはなく、私の徳は伯夷に及ばない。どうして立ち去れようか、と。
  • 王国は元酒泉太守の黄衍を遣って傅燮を説かせた。天下の趨勢はもう知れている。先に起てば上は覇王の業、下でも伊尹・呂尚の勲功が得られる。天下はもはや漢のものではない。府君は我らの師となる意志はないか、と。
  • 傅燮は剣を按じて叱りつけた。お前は国家から符を分かたれた臣ではないのか。利を求めてどこへ難を逃れるつもりだ。そもそも諸侯が社稷に殉ずるのが正しいのだ、と。
  • そして左右を指揮して出撃し、陣中で戦死した。霊帝は深く惜しみ、策書で壮節侯と諡した。
  • 傅燮は字を南容といい、北地郡霊州の人である。身長八尺、厳格で志操があり、威厳ある容姿を持ち、性は剛直で、正しさを踏み行い、権貴のために節を変えなかった。

西園の軍と人事

  • 六月丙寅、大風が起こって木が折れた。太尉の樊陵が策書で罷免され、射声校尉の馬日磾が太尉となった。
  • 秋八月、西園に三軍および典軍・助軍を置いた。小黄門の蹇碩を上軍校尉、虎賁中郎将の袁紹を中軍校尉、屯騎校尉の鮑洪を下軍校尉、議郎の曹操を典軍校尉とした。
  • はじめ黄巾が起こってから霊帝は軍事に心を用いた。蹇碩は壮健で武略があったので親任され、元帥として諸将を統括させ、大将軍以下もこれに属させた。
  • 九月、司徒の許相が策書で免ぜられ、司空の丁宮が司徒、光禄勲の劉弘が司空となった。特進の董卓が驃騎将軍となった。

処士の招聘

  • 己未、詔を下した。近ごろ人材登用が適切でなく、その人でない者が多い。儒と法が入り混じり、学問の道は次第に衰えている。処士の荀爽・陳紀・鄭玄・韓融・李楷は道に耽り古を楽しみ、志と行いは高潔で、清貧のうちに慎ましく暮らし、衆望を集めている。荀爽らをそれぞれ博士に補せよ、と。しかしみな出仕しなかった。
  • 韓融は字を元長といい、潁川の人である。博学で章句にこだわらず、その意義をことごとく究めた。たびたび徴聘されたがいずれも応じず、晩年になってようやく河南尹に任じられ、鴻臚・太僕卿となった。年七十余、兄弟が同居して家庭は和やかで、生涯そのままであった。
  • 李楷は字を公超といい、河南の人である。至孝で称えられ、山沢に隠れ住み、学問で通じないものがなかった。徴聘にはいずれも応じず、平陵令に任ぜられたが三日勤めただけでまた官を棄てて隠居した。学者たちが付き従い、その居る所は市を成した。華陰の南にはついに「公超市」ができた。
  • たびたび策命を受け、光禄大夫に拝されたが病を理由に立たなかった。そこで河南・弘農に命じて玄纁と束帛を届けさせ、必ず招こうとしたが、李楷は最後まで屈しなかった。

史論(袁宏曰・出処進退)

  • 布衣に韋帯で白髪まで仕えない者もあれば、若くして冠を結び老いても退かない者もある。この二つの道は古今を通じて同じで、長くそこに安んじるので、中間に立つ余地がない。
  • 世に「山林の士は行ったきり戻れず、朝廷の士は入ったきり出られない」という。行って戻らないのは志を貫くともいえるが、入って出られないのは大きく道を失っている。
  • 古の士は学問を政治に生かそうとし、可であれば進み、不可であれば止まった。分に応じて官を受け、分が極まれば身を退けた。だから仕えるか仕えないかの間に「止足」がある。仕えなければ枯れてしまい、仕えきってしまえば累を負う。仕えて止まれる者は、可否の間に身を置くという点で心を同じくしているのではないか。

何進の招聘と鄭玄・申屠蟠

  • このころ大将軍の何進は海内の名士を多く辟召して自分の補佐にしようとした。鄭玄は病と称して赴かなかったが、州郡に迫られてやむを得ず、幅巾姿で何進のもとへ詣でた。何進は几と杖を用意する礼で遇したが、鄭玄は一晩泊まっただけで退き、行方を知る者はなかった。
  • はじめ申屠蟠は梁と碭の間に隠れ、党錮の禍を免れていた。やはり何進に辟召されたが、一年余り経っても赴かなかった。何進は恨んで刑罰の威で脅そうとし、同郡の黄忠に書を書かせた。
  • その書はこう述べる。大将軍の幕府が開かれ、海内から英俊を招いている。高名や盛徳の持ち主でも特別扱いは受けないが、先生には殊礼を加え、名を呼ばず、几杖の座を設け、首を伸ばして東を望み日夜期待してきた。秋を過ぎ冬を越え二年になるのに、頑なに病を理由に拒み、顧みてもくださらない。爰中郎を遣わして再三懇ろに意を伝えさせたが、先生の志はますます高く、守りはますます固い。将軍はそこで呆然と失望し、恥じた色を浮かべ、自分の徳が薄いのだと悔いている。
  • 私が思うに、先生は高潔さでは十分だが、智恵の点では足りない。今、西戎が乱を起こして軍が外にあり、軍国の体制が敷かれて、動けば刑法が待っている。潁川の荀爽は病身を車に乗せて道中にあり、北郡の鄭玄は北面して官署を受けた。彼らが束縛を好むはずがない。今が安逸を許す時ではないと知っているのだ。
  • しかも昔の隠者は、たとえ時に遭っても声を絶ち跡を消し、巣に棲み薇を食べた。時に遇わなければ裸で大笑し、髪を振り乱して狂ったように歌った。今、先生は平地に住んで人の世に遊び、典籍を吟じ衣服を着ている。昔の隠者と行いが違うのに、その跡を踏みその事に倣おうとするのは無理ではないか。
  • どうか先生には、ゆったりと可否の間に身を置いてほしい。孔子を師とすればよいので、必ずしも首陽山に籠る必要はない。同じ気風を託し休戚を共にしたい。そこで飛書を借りて申し上げる、と。
  • 申屠蟠はこの書に返事をせず、恐れる色もなかった。

申屠蟠の人となり

  • 申屠蟠は字を子龍といい、陳留郡外黄の人である。
  • 同県の成人女性である侯玉が父の仇を報じ、夫の従母兄を殺した。姑が怒って侯玉を捕らえ役人に引き渡した。県令の梁配がその裁きをつけようとしたとき、申屠蟠は十五歳で、学舎から県庁へ出向いて上書した。
  • その内容はこうである。侯玉が父の仇を報じ、獄が法によって裁かれると聞き、悲しみの情に堪えず、聞くところを述べる。昔、太原の周党は春秋の義に感じて師のもとを辞し仇を報じたが、当時の論者もその節を高しとした。まして侯玉は女で弱く、内には同腹の相談相手もなく、外には交友の助けもなく、ただ父子の情に押されて自らの手で大きな仇を刺したのである。これを聞いた者は勇怯を問わず胆を張り気を奮い、身を軽んじ義を重んじる行いだと腕をまくって語り、その美を羨んだ。
  • 今、侯玉が牢に閉じ込められ罪名が定まったと聞き、みな意気消沈して悲嘆している。侯玉の節義は歴代にも例がなく、恥知らずの子孫を感じ入らせ、辱めに耐える者を奮い立たせるに足りる。昔なら村里に旌を立て碑を建てて後の世に顕彰すべきものだ。まして事が清らかな聴に達しているのに、義をもって遇さないでよいのか、と。
  • 県令は事情を詳しく報告し、侯玉は死一等を減じられた。
  • 申屠蟠は決まった師につかず、博く書を読んで通じないものがなかった。太学にいたとき、済陰の王子居が病で危篤となり、死に臨んで喪を託した。申屠蟠は自ら屍を背負って済陰まで送り届けた。途中、司隷従事に出会い、その志と義を嘉し重荷を憐れんで通行証を発行してくれたが、申屠蟠は受け取らず地に投げ捨てて去った。
  • 有司に推挙され公車で徴されたが、聘礼はすべて受けなかった。董卓がはじめ天下の賢俊を徴したときは、みな家から起って宰相に登ったので、申屠蟠にも徴書が届き、人々はみな行くよう勧めたが、笑って答えなかった。まもなく王室は大いに乱れた。申屠蟠は七十余で天寿を全うした。

平楽観の閲兵

  • 十月甲子、霊帝が平楽観で兵を閲した。
  • これより先、望気者が京師には大きな兵乱と流血があるだろうと言った。ある者が何進に、太公六韜には天子が兵を率いる事が説かれているので、それを四方に示せばよいと説いた。何進はもっともだと思って霊帝に言上し、平楽観の下で大々的に兵を集め武を講じた。
  • 天子は自ら甲冑を着け、軍を三度巡った。終わってから兵を大将軍何進に属させた。

蓋勲

  • はじめ漢陽太守の蓋勲は西州で実績を挙げていたが、耿鄙が必ず敗れると見抜いて自ら辞任し帰郷した。そこで武都太守に徴され、詔で大将軍何進と上軍校尉蹇碩に餞別の祖道の儀を行わせたので、京師ではこれを名誉なこととした。武都に着かないうちに討虜校尉として召された。
  • 霊帝が「天下はなぜ叛くのか」と問うと、蓋勲は「寵臣の子弟が民を乱すからそうなるのです」と答えた。当時、蹇碩の子弟がとりわけ甚だしかったので、天子が振り返って蹇碩に問うと、蹇碩は答えられなかった。
  • 霊帝がさらに「平楽観で軍を並べ、内蔵の財を多く出して戦士を釣ったのはどうか」と問うと、蓋勲は「昔の先王は徳を輝かせて兵を見せびらかしはしませんでした。今、賊は遠くにいるのに近くで陣を布くのは、果敢さを示すには足らず、ただ武威を汚すだけです」と答えた。霊帝は「善い。卿に会うのが遅かったのが残念だ。群臣はこれまで誰もこう言わなかった」と言った。
  • 蓋勲は劉虞・袁紹らとともに禁軍を統率していた。蓋勲は劉虞・袁紹に、自分は主上に拝謁したが、主上は甚だ聡明で、ただ側近に囲い込まれているだけだ、勇力をもって寵臣を誅し、そののち英俊を抜擢して漢室を興し、功が成れば身を退く、それは快いことではないか、と語った。劉虞・袁紹にもかねての謀があったので互いに結んだ。
  • しかし事を起こす前に、司隷校尉の張温が蓋勲を京兆尹に推挙した。霊帝は蓋勲を頼りにして側近くに置こうとしたが、蹇碩らは内心これを憚り、そろって帝に張温の議に従うよう勧めたので、蓋勲は京兆尹に任じられた。
  • 小黄門の高望は皇子弁に愛された寵臣で、蹇碩を通じて自分の子を蓋勲に託し、孝廉に挙げさせようとしたが、蓋勲は承知しなかった。ある者が、皇子は次の主であり、高望はその守り役、蹇碩は帝の寵臣だ、三つの怨みが積み重なればもう救えないと言うと、蓋勲は「賢者を選ぶのは国に報いるためだ。賢でなければ挙げない。たとえ死んでも悔いようか」と答えた。
  • このとき王国の勢力は十余万に達し、三輔は震え上がった。蓋勲は自ら一万の兵を発して三輔に分屯することを願い出た。密事があるたびに霊帝は蓋勲を呼んで詔問したので、身は外にありながら大いに信任された。蓋勲は琴詩十二章を著して奏上し、霊帝はこれを善しとしてたびたび賞賜した。
  • 十二月、左将軍の皇甫嵩と前将軍の董卓が右扶風に駐屯して王国を討った。