後漢紀巻第二十四 孝靈皇帝 光和三年 180年

虎の出現とその解釈

  • 春正月癸丑、天下に大赦した。
  • 夏、平楽観の下に虎が現れ、また憲陵にも現れた。詔で司徒の楊賜に問うた。
  • 楊賜は、虎は金行の精であり狂暴な獣である、今の在位者は驕り高ぶり残虐で貪欲な者が多いからではないか、と答えた。
  • 中郎将の張均も上言し、虎が憲陵に現れ平楽観の下にも現れたというのは、いずれも属官らの誤った伝聞だとしたうえで、洪範の説では言が従わないと毛虫の妖が生じる、虎は西方の獣で剛猛強梁の物であり、本来は穴に棲んで人の目に触れない、それが先帝の園陵で害をなし、また城下で見られたと言うのは、在位者が仁愛を示さず苛酷に殺戮しようとする心があるからだ、これは大兵や激しい賊の兆しであって備えなければならない、と述べた。

曹節の車騎将軍と審忠の上書

  • 秋七月、大長秋の曹節が車騎将軍となった。
  • 九月辛酉、日食があった。詔で群臣に、はばかるところなく封事を上らせた。
  • 郎中の審忠が上書した。その趣旨は、国を治める要は賢者を得るかどうかにあり、舜には五人の臣があって天下は治まり、湯が伊尹を挙げると不仁の者は遠ざかった、と説き起こす。
  • 故太傅の陳蕃と尚書令の尹勲は宦官の姦乱を知ってその党与を調べたが、華容侯の朱瑀は事が露見して身に禍が及ぶと悟り、逆謀に加わって陛下を脅し、群臣を集めて城社を割き取り互いに恩賞とした。父子兄弟は栄誉を蒙り、親しい者を州郡に配置して民から狼虎よりひどく搾り取り、財貨を蓄え邸宅を修理し、車馬や服飾は大家に匹敵する。
  • そのため公卿は口を閉ざし、州郡はその意向に従い、蝗が生じ夷狄が起こる。天意の憤りが十余年も積もったからこそ、毎年のように日食が起こり地震が起こって君主を戒め、悟らせようとしているのだ。
  • 今も朱瑀らが側近にあり、陛下は年若く盛んであるから、へつらう者に惑わされて不軌が起こることを恐れる。わずかの間でも耳を傾けてこの表を読み、醜類を掃討して天の怒りに応えてほしい、と結んだ。しかしこの上章は取り上げられなかった。
  • 星孛が狼・狐の星に現れた。

靈泉單圭苑の造営

  • はじめて靈泉單圭苑を造ろうとした。司徒の楊賜が上書して諫めた。
  • その趣旨は、使者が城南の民田を測量して苑にしようとしていると聞いた、昔の先王が囿を制するのは、犠牲を得て三度の狩りに備える程度にとどめ、薪を採り草を刈り牧をする者も入れた、と説く。詩に「王は靈囿に在り、鹿は伏す」とあり、伝には「わが王が遊ばなければ我らはどこで休もう」とある。いずれも徳政を蒙って民が楽しんだ例で、今のやり方とは違う。
  • 六国の時代には獣を捕った者が罪となり、槐を傷つけた者が誅された。孟軻は梁の恵王にその弊を極言した。先帝の制では左に洪池を開き右に上林を作り、倹約でも贅沢でもなく礼にかなっていた。
  • ところが今、都城のすぐ脇を囲って禽獣を飼おうとするのは、民や赤子を養う道ではない。宮室を時ならず築けば春秋はこれを譏る。遊猟に耽ることについては周公も戒めを作った。城外の苑は五、六もあれば情意を楽しませるに十分で、四季に順って過ごせるのに、なぜ旧制を変えて民力を疲れさせるのか。
  • 楚が章華台を興すと郢の人は背き、秦が阿房を作ると民は憤った。夏后が宮室を質素にした心と、太宗が露台の費用を惜しんだ故事を思い、民の労苦を歌ったこの下々を慰めるべきだ、と述べた。
  • 霊帝は取りやめようとしたが、侍中の任芝や楽松らが、昔宣王の囿は五十里で民は大きすぎると言い、文王の囿は百里でも民は小さいと言った、今二つの苑を造って百姓と共有するなら政の妨げにならず民も恩沢を受ける、と言ったため、霊帝はその意見に従った。

人事と皇后何氏の冊立

  • 閏月、司徒の楊賜が長患いのため罷免された。
  • 冬十月、太常の陳耽が司徒となった。
  • 十一月、皇后に何氏を立てた。南陽郡宛の人で、良家の子として掖庭に選び入れられ、寵を受けて貴人から皇后となった。父の何真は早くに亡くなり、異母兄の何進は河南尹、何進の弟の何苗は越騎校尉であった。
  • 十二月、車騎将軍の曹節が罷免された。