三公の交替と袁滂・橋玄
- 春二月丁巳、司徒の袁滂が災異により罷免され、大鴻臚の劉郃が司徒となった。
- 袁滂は字を公熙といい、袁閎の孫である。飾り気がなく欲が少なく、人の短所を言わなかった。権臣・寵臣が盛んな時勢では、同調するか否かで禍を招く者が多かったが、袁滂だけは朝廷で中立を保ったので、愛憎の巻き添えを受けなかった。
- 乙丑、太尉の橋玄と司空の袁逢が長患いのため罷免され、太中大夫の段熲が太尉、太常の張済が司空となった。
- 橋玄は字を公祖といい、梁国睢陽の人である。はじめ梁州刺史となったとき、梁州は大飢饉であった。橋玄は倉を開いて食糧を配ったが、担当官が旧例では先に上奏すべきだと言うと、「民は死にかけている」と言って配り終えてから上奏した。詔で、橋玄には汲黯のように民を憂える心があると認められたが、これを恒例としてはならないとされた。
- 橋玄は才知に優れ、人物を見抜く目があった。まだ無名だった魏武帝に会って大いに感心し、今に天下は乱れる、時代を救う才でなければ収められない、天下を定めるのは君であろう、と語った。
段熲・王甫の誅殺と楊球
- 夏四月丙戌、日食があった。
- 辛巳、太尉の段熲が罪を得て下獄し誅された。もともと黄門令の王甫と大長秋の曹節が権を専らにして勢いをふるい、段熲は王甫らにおもねっていた。
- 尚書令の楊球はかつて腿を叩いて、自分が司隷校尉になればこの連中がこんな真似をできようか、と嘆いた。まもなく楊球は司隷校尉となり、任官の翌日、参内して謝恩した折、ちょうど王甫が休沐で宿舎に下がっていたので、その機に奏上した。
- その奏文は、中常侍・冠軍将軍の王甫は職務にあたって邪と姦が多く、事にかこつけて弾劾するのもすべて私怨によるものだ、勃海王の誅殺も宋皇后の廃位も王甫の罪である、太尉段熲はわずかな征伐の功で人臣を極めながら、忠を尽くして国に報いず、へつらって寵を得ている、両名をともに誅して海内に示すべきだ、というものだった。
- そこで段熲と王甫が捕らえられて下獄し、楊球は自ら取り調べた。王甫の子の王萌はかつて司隷校尉、のち永楽少府となっていたが、あわせて捕らえられた。
- 王萌は楊球に、父子ともに誅に伏すのは仕方ないが、前任者と後任者のよしみで老父を少しは労わってほしい、と言った。楊球は罵って、権勢によって官を得て忠実に務めた者もいないのに、司隷の先後のよしみとは何事かと言った。王萌は、穴に臨んで助け合うべきなのに、お前も私の後を追って死ぬのが見えないのか、と言い返した。楊球が杖を取って打ち、王甫・王萌はともに杖の下で死んだ。
- 楊球は都官従事に、まず権貴と大悪人を挙げ、その他はあとで議論すればよい、公卿や豪族、たとえば袁氏の子弟のような輩は従事が自分で処理せよ、校尉の手を煩わせるまでもない、と命じた。これによって権門は震え上がり、京師は粛然とした。
- 王甫を誅したのち、楊球は曹節も捕らえようとした。曹節らは恐れて休沐にも出なかったが、順帝の虞貴人の葬儀があり、百官が葬送から戻って夏城門に入るとき、曹節が道端で挨拶したのを見て、楊球は「賊臣曹節」と大声で罵った。
- 曹節は車中で涙をぬぐい、我らが同士討ちで肉を食い合っても、犬にその汁を舐めさせる理由はない、と言い、常侍たちに、これからは宮中に入ったきり里の宿舎に立ち寄るなと告げた。
- 曹節は宮中に入って、楊球は残酷で百姓を安んじないと讒言した。霊帝はそこで楊球を衛尉に移した。
- 楊球は叩頭して申し立て、自分に清高の行いはないが、犬鷹のような役目を蒙り、先に常侍王甫・太尉段熲を誅したが、彼らは狐狸のような小物にすぎず天下に示すには足りない、今なお梟が園林に舞い豺狼が牧場を噛んでいるのを恥じるとして、詔の撤回を願い、殿下で叩頭した。霊帝は「衛尉は詔に逆らうのか」と叱り、再三に及んでようやく楊球は任を受けた。
- 丁酉、天下に大赦した。
匈奴の単于交替
- 秋七月、匈奴中郎将の純修が独断で単于の呼演を捕らえて斬り、右賢王の羌深を新たに単于に立てた。純修はその罪に問われた。
陳球・劉郃らの獄死
- 冬十月、永楽少府の陳球が下獄して死んだ。
- もともと陳球は司徒の劉郃に書を送り、公は宗室の出で三公の位にあり天下の望みを負っている、いま曹節らが放縦にふるまい天下の害となりながら久しく側近にいる、賢兄で侍中の劉常も曹節に害されたのだから、上表して尚書令の楊球を司隷校尉に就け、曹節らを捕らえて誅すべきだ、政治が聖主から出れば天下太平はすぐにも実現する、と説いていた。
- 楊球の妾に程黄という女がおり、その母の黄氏が宮中で権を持っていた。これが世に言う程夫人である。曹節らはこの謀をうすうす聞きつけ、黄氏に多額の賄賂を贈り、さらに脅した。黄氏は怯えて曹節らに楊球の謀を告げた。
- 曹節らは霊帝に劉郃を讒言し、劉郃らは常に陳蕃・竇武と通じており、収賄も甚だしい、歩兵校尉の劉納・永楽少府の陳球と通じてともに謀議していると訴えた。霊帝は激怒し、策書によって劉郃・陳球・楊球・劉納をみな下獄させ、死なせた。
- 楊球は字を方正といい、漁陽郡泉州の人である。勇気があり、郡の役人が母を辱めたとき、若者数十人を集めてその役人を殺し一家を滅ぼしたことで名を知られた。九江で山賊が起こって刺史を襲うと、太尉掾から九江太守となり、方策を立ててたちまち撃破し、豪強を除いたので郡中は身を縮めた。甘陵相に移った。
- 当時天下が旱に見舞われ、司空の張顥が、郡守・長吏で厳酷・貪汚な者をみな罷免するよう奏したため、楊球も厳酷を理由に召還された。しかし九江での功により議郎に任じられ、将作大匠・尚書令へと進んだ。
- 十一月、太常の楊賜が司徒となった。