大赦と三公の交替
- 夏四月癸丑、天下に大赦した。
- 五月、太尉の李咸が長患いのため罷免され、光禄の劉寛が太尉となった。
曹鸞の上書と党錮の拡大
- 閏月、永昌太守の曹鸞が下獄して誅された。もともと曹鸞は党人のために弁護する上書をしていた。
- その主張は、党人は高齢で徳の深い者、あるいは名門の英才であって、王室を支えるべき人材なのに長く禁錮され泥にまみれている、謀反・大逆ですら赦免を受けるのに党人だけ許されないのはなぜか、災異や水害・旱害が続くのはそのためであり、寛大な措置で天意に応えるべきだ、というものだった。
- 有司は檻車で曹鸞を召し出して棄市とするよう奏上した。曹鸞は九十歳で、本郡の人々はその処罰を痛ましく思った。
- これを機に党人の適用範囲が広げられ、父兄・子弟・門生・故吏に至るまでみな免官のうえ禁錮とされた。
袁隗の罷免と袁氏の権勢
- 冬十月、司徒の袁隗が長患いのため策書で罷免された。
- 袁隗は字を次陽といい、代々三公を出す家柄で当時の権勢は群を抜いていた。兄の袁逢とともに人との交際を好み、外には名士と結び、内では宦官と通じた。
- 中常侍の袁朗は袁隗の一族で宮中で権を握っており、袁逢・袁隗の家が代々宰相を出していることを理由に彼らを持ち上げ、自らの後ろ盾とした。そのため袁氏の富貴は度を越え、漢の公族でもこれほどの例はなかった。
- 袁逢の兄の子の袁紹は士を好んで名を知られ、賓客が押し寄せた。袁紹は身分を落として彼らに接し、賢愚を選ばなかった。袁逢の子の袁術も任俠を好み士を養ったので、天下の事を好む者が争ってその門に集まり、車が常に千両も連なった。寵臣や宦官はこれを憂えた。
楊賜の司徒就任と上疏
- 十二月丙戌、光禄大夫の楊賜が司徒となった。
- 当時は爵位の授与が乱れ、遊興・遊覧に節度がなかった。楊賜は「代々国恩を受け宰相の位にある身で黙ってはいられない」と嘆き、あらためて上疏した。
- 上疏の趣旨は、天が民を生んでも自ら治めることはできないので君長を立てるのだ、文王は昼夜食事も忘れて和やかな教化を築いた、と説き起こす。近ごろ爵位の授与が多すぎて尚書に弾劾されることが続き、衆望のない者や素性の知れない者まで登用されている。堯は舜を用いるにもまず試し、実績を積ませてから功を成させた。ところが今は徳望もない者が旬月のうちに高位へ累進し、道を守る者は何年も昇進せず、勤勉と怠惰、善と悪の区別がない。
- さらに、しばしばお忍びで出かけて苑囿を巡り、鷹や犬を使う狩りに興じ、遊楽を極めるため政事は日々崩れ、教化は衰えていると諫めた。二祖の勤勉を顧みず、五宗の高い足跡だけを慕うのは、輝かしい徳とは言えず、それで太平を望むのは曲がった形で真っすぐな影を求め、後ろ向きに歩いて前へ進もうとするようなものだと述べた。
- 締めくくりに、遊興をやめ人事の重さを思い、度を越した恩賜を控え、後宮への寵愛の順序も慎み、遠近の憤りに応えてほしいと求めた。自分は特に厚恩を受け師傅の任にあるので、口をつぐんで身の安全を図ることはできないとして、自筆の書を密封して奉った。