後漢紀巻第二十三 孝靈皇帝 建寧五年(熹平元年) 172年
上陵の礼と蔡邕の言
- 春正月、車駕が原陵に上った。諸侯王・公王および外戚の家の婦女、郡国の計吏、匈奴の単于、西域三十六国の侍子がみな会し、殿で朝会する儀に倣った。礼楽が終わると百官は爵を賜り、計吏は順に殿前に向かい、先帝の御座に対して風俗の善悪や民の苦しみを詳しく述べた。
- 司徒掾蔡邕が感慨をこめて嘆じた。古には墓祭をしないと聞くが、上陵の礼はこれほど備わっている。その本意を察すれば、孝明皇帝の至孝と惻隠の情が動かしがたいものであったと分かる、と。
- ある人が本意とは何かと問うと、答えた。西京の時代の礼は聞くことができない。光武の世に初めてここに葬り、明帝が位を嗣いで年を越え、群臣が正月を朝したとき、先帝がもうこの礼を見られないことに心を動かされ、公卿百僚を率いて陵に赴いて朝した。亡き人に事えること生ける人に事えるがごとし、の意である。
- 続けて言った。先帝と縁故のある者は男女みな会し、郡の計吏はそれぞれ神座に向かって述べる。先帝の魂神が聞き取ってくれることを願ってのことだ。今は年月が久しく隔たり、当時の人ではないので、ただ礼の形だけを見てその哀しみを知らない。煩わしいとして省みないのは、先帝の孝を思う心を解さないからだ、と。
胡廣の死(原文はここから熹平元年とする)
- 原文はこの元号を「僖平」に作る。
- 春三月壬戌、太傅胡廣が薨じ、安鄕侯の印綬を贈られ、文侯と諡された。
- 廣は字を伯始、南郡華容の人。はじめ郡吏となったが取るに足らぬ者の中にいた。太守法雄の子の真は人を見る目があり、父の雄に言った。南郡の掾吏を見ればその民のありさまがほぼ分かる。今、孝廉を挙げて国のために士を選ぶのだから、選ばぬわけにはいかない。適任者はいるか、と。雄はまだ当てがないと答えた。
- 真が掾らと会うことを求め、ひとり廣を優れた者と認めた。廣は当時二十六歳だった。雄は廣を孝廉に挙げ、京師に至って廣は天下第一となり、ひと月ほどで尚書郎を拝し、次第に九卿・宰輔に進み、しばしば三公の位に登った。
- 元老の位にあって国家に多難があったが、廃立や邪正の分かれ目では慎重で重々しく身を処し、旗色を明らかにすることができなかった。
- しかし年八十を過ぎても継母が存命で、朝夕の伺いを欠かさず子としての道は欠けなかった。傍らに脇息や杖を置かず、言葉に老いを口にせず、喪に居ては礼を尽くした。廣が薨じると、旧属の公卿・大夫数百人がみな喪服を着て泣いた。漢の興って以来かつてないことだった。
- 廣が臨んだ治世には悪政がなく、世は諺に、天下の中庸は胡公にありと言った。このころ宰輔の地位にある者は私恩を植えて子孫のために計り、その後代々公卿に至ったが、廣の子孫には二千石を超える者がなかった。
青蛇の変と楊賜の上書
- 夏四月甲午、青い蛇が御座に現れた。詔して群臣に問い、忌憚なく述べさせた。
- 光禄卿楊賜が上書した。よい兆しがあれば五福が応じ、咎の兆しがあれば六極が至る。善はみだりに来ず災いは空しく起こらない、必ず行いに応じて至る。王者が心に思い意に想うことがあれば、まだ顔色に表れなくても五星は動き陰陽は乖き乱れる。これで見れば天と人は遠く隔たっていない。
- 続けて述べた。蛇は洪範では鱗虫の象で、思う心が及ばぬことによって起こる。及ばぬことの効として龍蛇の孽がある。詩に「虺よ蛇よ、女子の兆し」という。春秋には鄭の昭公のとき二匹の蛇が南門の外で闘い、その後昭公はほぼ女によって敗れたと記す。
- さらに述べた。昔、周王は文王の盛世を承けながら一朝にして怠り、夫人は璜を鳴らさず宮門では柝を撃たなくなり、関雎の人は機を見て詩を作った。女の口利きが行われれば讒言する者が盛んになり、讒者が盛んになれば賄賂が通る。殷の湯はこれをもって自らを誡め、旱魃の災いを救った。
- 結びに述べた。願わくは陛下は乾の剛の道を思い、内と外の分を分かち、帝乙の制を尊び、元吉の福を受け、皇后の権を抑え、艶なる妻への愛を割かれよ。そうすれば蛇の変は消え、めでたい祥がたちどころに応じる。殷の戊、宋の景の例がその明証である、と。上は深く容れた。
- 五月己未、天下に大赦した。常侍張樂と太僕侯覽が権を専らにして驕り恣にしたので、詔して印綬を取り上げた。覽は自殺し、党を組んだ者はみな免ぜられた。
竇太后の葬礼をめぐる論争
- 六月癸巳、皇太后竇氏が崩じ、遺骸を衣車に載せて城南の市舎に置いた。殯しようとしたとき曹節・王甫は貴人の礼を用いようとしたが、上は言った。太后は自ら朕を立て大業を継がせた。詩に「言として応えられぬものはなく、徳として報いられぬものはない」という。どうして貴人の礼を用いられようか、と。そこで喪を発し喪服を着けた。
- 葬ろうとするとき、節と甫は竇氏が誅されたことを理由に太后の礼を用いず、馮貴人を桓帝に合葬しようとした。公卿は誰も諫めなかった。
- 河南尹李咸が毒薬を手に上書した。禹や湯は自らの悪を聞いたので過ちがなく、桀や紂は自分に都合のよい言を聞いて国を亡ぼした。中常侍曹節・張諫・王甫らは寵愛に因り勢いに乗じて忠良を害し、故大將軍竇武と太傅陳蕃を讒言した。形もない疑いを空しくかぶせ、天に届くほどの罪を着せた。陛下は省みず、みだりに雷霆の怒りを発した。海内の賢愚みな心を痛めぬ者はない。武はもう死んだ、いかんともしがたい。
- 続けて述べた。皇太后は自ら孝桓皇帝とともに宗廟を奉じ、庶民を母のごとく養い、天心に繋がり、仁の風は豊かに四海が宗とした。礼に、人の後嗣となる者はその人の子となるという。陛下は仰いで元帝を継いだ以上、どうして太后を母としないでいられようか。生前は顧み育てられた報いも蒙らず、亡くなっても喪に服する哀しみを聞かない。
- さらに述べた。太后がまだ崩じないうちに武が先に誅された。存亡はそれぞれ別で事は互いに及ばないのに、武への怒りが止まず太后を貶めようとするのは、有虞の孝を尊び篤い仁を明らかにすることではない。八方の人が聞けば血の涙を流さぬ者はない。
- 続けて述べた。昔、秦の始皇の后が不謹慎で郎吏を寵愛して事を起こし、始皇は激怒して母后を幽閉したが、茅焦の言に感じてすぐ車を出して母を迎え、酒を置き楽を奏で、供養は元のようにした。秦の后の悪、始皇の道理に背いた振舞いですら茅焦の語を容れて母子の恩を失わなかった。まして太后は罪によって没したのではない。陛下の過ちは始皇より重い。
- 結びに述べた。臣は謹んで恐れながら誠を陳べる。左手に上章を持ち右手に薬を執って闕に詣り自ら申し上げる。願わくは陛下は茅焦の諫めを量り、始皇の悟りを広め、母子の恩を復し、皇太后の園陵の礼を崇められよ。上は天の震動の怒りを解き、下は民の悲痛の情を解くことになる。もし省みられぬなら、臣は鴆を飲んで自裁し、地下で先帝に見えて得失を詳しく陳べる。ついに刀鋸に裁かれはしない、と。
- 上章が読まれ、上はその言に感じて公卿に改めて議させ、中常侍趙忠に議を監督させるよう詔した。
- 当時、数百人の官が互いに顔色をうかがい、誰も敢えて議を出さなかった。廷尉陳球が、皇太后は旧家の姓と盛徳をもって椒房に選び入られた、桓帝に配すべきは疑いないと言った。忠は笑って、廷尉はさっそく筆を下されよと言った。
- 球はそこで議を下した。皇太后は椒房にあって聡明で母の儀範たる徳があり、天の不幸に遭って聖明の君を援立し宗廟を継がせた。功績は極めて重い。先帝が崩じてから大獄に遭い、人気のない宮に遷され、不幸にも早くに世を去った。家は罪を得たが太后の意ではない。今もし別に葬れば、まことに天下の望みを失う。それに馮貴人の墓は賊に掘られ骸骨が露わになり賊の屍と混じった。魂霊が汚れており至尊に配すべきではない、と。
- 忠は球の議を読んで色を変え、陳廷尉のこの議は甚だ強硬だと言い、球を嘲ろうとした。球は、陳蕃・竇武はすでに冤であり、皇太后は無実で幽閉された。臣は常にこれを痛んできた。今日これを言い、退いて罪を受けるのは臣のかねてよりの願いだと言った。諸公卿はみな球の議に従った。
- 奏が上ると節と甫はまた、竇氏の罪は深く比べるものがないと言った。上は、悪逆を犯したとしても、後には朕に大きな徳があると言い、節と甫はそれ以上言わなかった。
- 七月甲寅、桓思竇皇后を葬った。
勃海王悝の死
- 冬十月丁亥、勃海王悝が自殺した。はじめ悝は罪あって奭陶王に貶された。悝は黃門王甫を通じて封国の回復を求め、租銭五十万を賄賂に約した。桓帝が病篤いとき詔して悝を勃海王に復した。
- 甫はこれを自分の功として悝に督促したが、悝は帝の意によるものと知って甫に銭を渡さなかった。そこで甫は悝を大逆不道と仕立て、司隷校尉叚潁に諷して奏させ獄を治めさせた。悝はついに自殺した。
- そののち越王を自称して郡県を攻め破る者があった(原文はこの部分の主語を欠く)。