災異と羌の侵入
- 春正月辛丑、南宮の嘉德殿が焼けた。二月壬申には武庫が焼けた。
- 夏四月甲寅、河間の孝王を遷して王とした。五月、大辰の星座に彗星があらわれた。丁卯、源陵の長壽門が焼けた。
皇甫規の羌討伐と入獄
- 六月、羌が金城・安定・漢陽・武威を侵して吏民を殺した。中郎將皇甫規が討って大破した。
- それ以前、涼州刺史郭閎・漢陽太守趙喜・安定太守孫俊はいずれも職務に堪えず、外戚の権勢を頼んでいたので有司も摘発できずにいた。規はその罪状を一つ残らず条を分けて奏上した。羌人はこれを聞いて心を一つにして喜び、一時に降伏した者が二十餘萬口に及んだ。
- 規は召されて議郎を拝したが、論功が終わらぬうちに常侍左悺が私事を頼んできた。規が筋を通して応じなかったため、悺は残党が絶えないことを口実に規を捕らえて投獄した。學生張鳳ら三百餘人が宮門に詰めかけて訴えたが取り上げられず、規はついに罪に問われた。恩赦に会い、また召されて尚書となった。
- ほどなく再び中郎將として梁・益の叛いた羌を討ち、功によって喜城侯に封じられたが、固辞して受けなかった。
皇甫規の人となり
- 規は字を威明といい、安定朝那の人である。かつて梁氏を痛烈に批判し、病と称して郷里に帰り、十餘年にわたって門人を教授した。
- 梁冀が誅されると、ひと月ほどの間に礼を尽くした招聘が五度も届いたがいずれも応じず、公車による徴召でようやく起って太山太守となった。
- 賢者を推挙し士を世に出すことを好み、太傅陳蕃・太尉楊秉・長樂少府李膺・太守張奐はみな規の教えを受けて世に名を知られた。
陳蕃、五人の處士を推薦する
- 秋八月、關内侯に関する記事があるが、張掖・酒泉に関わる文が脱けており意味が通らない。
- 尚書令陳蕃が上奏した。善人は天地の綱紀であり、政治が拠って立つところである。詩に「多くの立派な士がこの王国に生まれる」とあるように、天は俊才を生んで陛下のために世に送り出し、明時を輔けて大業を助けさせるのだ、と説いた。
- そのうえで、處士の豫章の徐稚、彭城の姜肱、汝南の袁閎、京兆の韋著、潁川の李曇の五人を挙げ、徳行が完備して民の評判にもあらわれているから登用すべきで、必ず威徳を宣べ広め日月の光を増すだろうと述べた。
- 詔によって公車が礼を備えて招いたが、みな病と称して来なかった。
徐稚
- 稚は字を孺子といい、豫章南昌の人。家は貧しく常に自ら耕作し、自分の労で得た衣でなければ着ず、自分の力で得たものでなければ食べなかった。恭儉・義讓で、礼にはずれたことは口にせず、その住むところは徳化を受けて落とし物を拾う者もいなかった。
- 陳蕃が豫章太守だったとき、礼をもって功曹に招くと、稚は起って一度謁見しただけで退いた。蕃が粟を贈ると受け取って隣近所に分け与えた。有道に挙げられ、家から召されて太原太守を拝したが、いずれも就かなかった。
- 諸公の招聘には応じないのに、死者が出ると笈を背負い徒歩で千里を弔問に赴き、わずかな酒と鶏を白茅に供えて酹し終えるとすぐ立ち去り、喪主には誰だったか分からなかった。
- 若いころ國學に学び、江夏の黃瓊が家で教授していたので、そこに就いて大義を尋ねた。瓊が仕官して三公にまで昇ると稚はぱったり交際を絶ち、瓊が薨じて葬られるときになって初めて赴き、酒を供え哀哭して去った。誰も気づかなかった。
- そのとき天下の名士が遠近から集まっており、みな「豫章の徐孺子が来たそうだ、なぜ会えないのか」と言い合った。喪の世話役に問うと、粗末な衣で哀切に哭した書生が一人来たが姓名を記していないという。皆「それこそ孺子だ」と言った。
- そこで弁の立つ陳留の茅季偉を選んで会わせに行かせた。季偉は酒と肉を買って稚にふるまい、国政について尋ねたが稚は答えず、農事を問うとようやく答えた。
- 季偉が戻ってこれを話すと、ある者は孔子の「語るべき相手に語らないのは人を失うことだ」を引いて稚を責めた。郭林宗はそうではないと言った。孺子は清廉高潔で、飢えても食を、寒くても衣を求めない人物なのに、季偉のためには酒を飲み肉を食べた。それは季偉の賢さを認めたからだ。国事に答えなかったのは、その智には及べてもその愚には及べないという類のもので、何も分かっていないわけではない、と。
- そのころ宦官が政治を専断して漢室は乱れ、林宗は都を巡り歩いて人を教え諭してやまなかった。稚は書を送って戒めた。大木が倒れかかっているのは一本の縄で支えられるものではない、なぜ落ち着かず奔走するのか、と。林宗ははっと悟り、この言葉を謹んで師の教えとすると言った。
姜肱
- 肱は字を伯淮、彭城廣戚の人。静かに隠棲し、義でないことは行わず、老人を敬い後進を導いた。
- 弟の季江と同行中に盗賊に襲われ、弟を殺そうとした。肱は、弟は年若く父母が慈しんでおり、まだ妻も迎えていないから自分が代わりに死にたいと言った。季江は、兄は年も徳も上で家の英俊だから殺すのは惜しい、自分は頑愚で生きていても役に立たず死んでも損はないから代わりに殺されたいと言った。
- 二人が路上で先を争って死のうとするので、盗賊は刃を収め、「あなたがたこそ義士だ」と言って奪った物を捨てて去った。肱の車中には席の下に数千銭があり盗賊は気づかなかったので、従者に追いかけさせて渡そうとしたが、賊は感じ入って受け取らなかった。肱は一度盗賊の手を経た物だとして亭長に預け、そのまま去った。
- 有道・方正に挙げられたが、いずれも就かなかった。
袁閎
- 閎は字を夏甫、太傅袁安の玄孫である。安から閎まで四世にわたって三公を出し、その貴顕は天下を圧した。
- 閎は静かで真実を踏みはずさず、栄達を求めず、茅ぶきの家に安んじ、妻子は糟糠を口にした。
- 父が彭城太守として在官のまま死ぬと、兄弟五人は歩いて柩車に従い昼夜号泣した。従叔の袁逢・袁隗はともに宰輔の地位にあって前後に贈り物をしたが、一切受け取らなかったので、二公は腹を立てた。州府の招聘や州郡の礼を尽くした任命にも応じなかった。
韋著と李曇
- 韋著は字を休明、京兆杜陵の人。隠居して講義を行い、世俗の事務に関わらなかった。
- 李曇は字を子雲、潁川陽翟の人。幼くして父を失い継母に仕えた。継母は厳しく当たったが曇はいっそう謹んで仕え、妻子を率いて労苦を引き受け怨まなかった。自ら農耕して養い、四季の珍味は必ず先に拝礼してから母に差し出した。郷里で親を持つ者はその孝行を手本とした。招聘には応じず、ただ親に仕えることを楽しみとした。