夏五月〜六月 日蝕と博陵郡の設置
- 夏五月甲戌の晦、日蝕があった。京都に蝗の害があった。
- 六月、天下に大赦した。
- 丙戌、はじめて博陵郡を置いた。
寇栄の失脚と亡命
- 侍中の寇栄は寇恂の曾孫である。弁が立ち潔癖を自負し、若い頃から人との交わりが少なかったため、権勢を得た者に憎まれた。
- 寇栄の従兄の子が益陽長公主を娶り、帝はさらにその従孫の娘を後宮に入れたので、側近たちはますます彼を憎み、罪に陥れた。宗族はみな免官されて故郡に帰された。
- 郡の役人が厳しく追い立てたので、寇栄は免れないと恐れ、闕に走って自ら訴えようとした。しかし着かぬうちに刺史の張敬が追って弾劾し、勝手に辺境を離れた罪とした。詔で捕えられることになり、寇栄は数年間亡命した。赦令が出ても許されず、困窮して山中に逃れ、上書した。
寇栄の上書
- 天地は万物に対して生を好み、帝王は万民に対して慈しむ。陛下は天を統べ物を治めて民の父母となり、生あるものはみな徳沢を蒙っている。それなのに自分の兄弟だけが権門に嫉まれた。
- 自分が王室と婚姻を結んだために、やがてその背を撫でて位を奪い、身を退けさせて勢いを奪うつもりだと言われ、匿名の告発文をでっち上げて一族に着せ、万仞の谷に突き落とし必死の地を踏ませようとした。
- 陛下は慈母の仁を忘れて、機を投げ捨てるような疑いの怒りを発し、有司は意向を承けて一門を追い立てた。本郡に走らされるだけなら死ぬまで怨みはしない。だが豺狼に食い殺されることを恐れ、死を冒して闕に詣って肝胆を披いたのである。
- 刺史の張敬は諂いを好み、罠を仕掛けて陛下の雷霆の怒りを再び引き起こした。司隷校尉の応奉、河南尹の何豹、洛陽令の袁騰の三官がそろって仇敵に向かうように駆り立て、威は罪なき者に加えられ、罰は朽ちた骨にまで及んだ。ただ墓を掘って骸を出し、棺を割いて屍をさらしていないだけである。
- 残酷な吏は無辜の害を顧みず、聖朝が必ず自分の一族に罰を加えるように仕向ける。だから天威に触れるのを避けて自ら山林に隠れた。
- 陛下が神聖の聴を働かせ、ひとり見抜く明を開き、讒言の謗りを退け邪な巧言を絶ち、救える民を救い、溺れる命を援けてくださると思っていた。
- ところが怒りは春夏になっても止まず、恨みは季節に順って緩むこともなく、遠近に布告して厳しく自分を求め、海の隅にまで網を張り万里に罠を置き、追う者は人跡の限りを尽くし車の轍の届く限りを極めた。楚が伍員に懸賞し、漢が季布を求めたのも、これを超えるものではない。
- 罰を受けて以来三度も赦令に会った。証拠のない罰なら除かれてよいはずなのに、陛下はますます自分を憎み、有司は責め立てる。とどまれば掃き滅ぼされ、行けば逃亡の徒となり、生きれば窮民、殺されれば怨みの鬼となる。天は広いのに自分を覆ってくれず、地は厚いのに自分を載せてくれない。陸を踏んでも沈む憂いがあり、岩や垣を遠ざけても圧し潰される患いがある。
- 精誠は天を感じさせるに足るのに、陛下は悟らない。もし自分が大悪人で刀鋸に値するなら、陛下は市朝にさらし王庭に据え、三槐九棘の臣にその罪を公平に議させるべきだ。万乗の前に近づく手立てもなく、永く信じてもらえる時も来ない。
- 勇者は死から逃げず、智者は名を毀たない。尽きようとする命を惜しむのではなく、湘水・沅水の波に身を投げたいと願う。ただしばしの猶予を借りたのは、故郷を思う情に堪えなかったからだ。
- 王の怒りを犯し帝の禁を触れ、両観の下に伏して痛ましい冤罪を述べ尽くし、そののち金の鑊に登り煮え湯に入るなら、死んでも恨みはない。悲しいことに、長く生きたとて何を頼りにできよう。
- どうか一門にいくらか生き残りを許し、天地の寛厚の恵みを高からしめてほしい。謹んで死を期して心情を陳べ、この文を前に血の涙を流す、と。
- 帝は取り上げず、ついに寇氏は滅ぼされた。
史論(袁宏曰・性命)
- 寇栄の心はまことに哀れむべきである。しかしついに滅亡に至ったのは、やはり命ではないか。性命の究極は古人も明らかにしようとしなかったが、おおよそは言える。
- 易に「天が助けるのは信ある者だ」とある。順と信こそ天人の道であろう。得失存亡もまた性命の極みである。
- これに向かえば吉、背けば凶なのは順の極みであり、誠を推せば通じ、思いを変えれば塞がるのは信の極みである。順と信は自分一人の内に存するのに、吉凶や通塞は外から入ってくる。これこそ性命の理が自分に由来することの証ではないか。
- 六合の大きさ、万物の多さの中で、一身が宿る場所は馬の背の秋毫のようなもので、拠るところはごくわずかにすぎない。それでも賢者はこれに順って通じ、不肖の者は逆らって塞がる。乗る道が別々にあるわけではない。招くのは自分だからこそ、禍福に定まった門はないという応じ方の違いが生じる。
- 松や竹は堅く秀でて寒暑を経ても衰えないが、楡や柳は虚ろに撓んで一時のうちに散り落ちる。これは草木の性の長短の違いである。廉潔な者には必ず貪濁の相手があり、剛毅な者には必ず強勇の敵に遇う。これは人事における感応の違いである。いずれも自ら招いたもので、誰かが仕組んだのではない。
- 万物のありようはみなこうで、動くのは自分、応ずるのは相手であって、影が形に、響きが声に応ずるように狂いがない。
- だから君子は、否と泰を招くのは自分にあると知り、性を繕い心を治めて理に背かず、外物が来るのは内から至ると知って、得失や吉凶を天に怨まない。そうであれば、泰に遇っても情を変えず、否に遭っても心に憤らない。すべて自分に由来するのだから、何を悲しむことがあろう。