黄瓊の籍田の疏
- 春、尚書僕射の黄瓊が上疏した。古の帝王で神明を敬い農事に労さぬ者はなく、必ず自ら郊廟の礼を行い籍田を勧めた。人々に率先して農功を励ますためである。昔、宣王が千畝の籍田を行わなかったのを虢公は大いに譏った。
- 陛下は古に稽える大業を遵び、慎み深く天に応じ時に順い、元を奉じて百神を懐柔しておられる。詩が成湯を詠い書が文王を称えたのも、これに加えるところはない。
- 今、廟の祀りが終わり穀を祈る時期になったが、側近の忠孝の者が陛下の身を煩わせまいとして、親耕は廃してよいと考えているのではないかと恐れる。
- 先王の典に、籍田には日が定められ、司徒が皆に戒め、司空が壇を掃き清めるとある。東の郊で気を迎え、時節の風に応ずるためである。陛下が群臣を率い、冕をつけて三度鋤を推されれば、恵みの潤いが行き渡り万民は頼るところを得る、と。帝はこれに従った。
皇太子の擁立と种暠
- 夏四月辛巳、皇子の炳を皇太子に立て、天下に大赦し、男子に爵を等級に応じて賜った。
- 帝は中常侍の高梵に太子を迎えに行かせたが、高梵は詔書を持たずにそのまま承光宮へ赴き、車に太子を乗せて出そうとした。太子太傅の杜喬は止められず途方に暮れた。
- 御史の种暠がちょうど来合わせ、剣を横たえて車の前に立ち、太子は国の後継ぎで万人の命が繋がっている、常侍が詔書もなく来て、どうして太子を連れ出せようか、常侍が姦邪でないとどうして分かる、今日のことは死あるのみだと言った。
- 高梵は争えず、尚書に問い合わせて回答を得てから太子を渡すことを認めた。太子が到着すると、帝は种暠の慎重さを嘉し、長く感嘆した。
順帝の崩御
- 秋八月、徐州・揚州で盗賊が群れ起こり、御史中丞の馮放に州郡の兵を督させて討たせた。
- 庚午、帝が玉堂で崩じた。遺詔で寝廟を建てず、衣はすべて着古しのものを用い、珠玉や玩具の類は一切副葬させなかった。
- この日、太子が皇帝の位に即いた。年は二歳。太后が臨朝し、太尉の趙峻に尚書の事を録させた。
- 九月丙午、孝順皇帝を憲陵に葬った。尚書の欒巴は、陵を造るのに民の墓を壊すべきでないと諫めて投獄され、免ぜられて庶人となった。
皇甫規の対策
- 丙午、都で地震があった。詔して公卿・特進・校尉に、賢良方正で直言極諫できる者を各一人推挙させた。
- 皇甫規が対策を奉った。陛下は聖徳明らかで、災いを聞いて自らを責め、群臣に諮り、あえて諫める者を招かれた。臣が朝廷に上って大問を承ったのは、憤りを吐き出して命を終える機会である。
- 孝順皇帝は初め王事に勤め四方を統べ、天下は喜んで治まる兆しかと思われた。ところがその後、中常侍・小黄門の兄弟数十人が同類相求め、まるで市の商人のようになり、競って事を構えて上を非道に導いた。寵を利用して賄賂を受け、爵を売り、分け前を取り、罪を揉み消して天子の威を盗んだ。
- 公卿以下、下級の属吏に至るまでその門に私を通わせ、際限がない。頑悪な子弟が州郡に並び、豺狼となって民を虐げ、天下は騒然として、乱に走ることが故郷に帰るようである。ついに風俗は壊れ、災いと寇を招いた。
- 今は朝廷で百官に問い質し、常侍以下でとくに悪質な者は速やかに退けて衆に示し、その党与を掃い、その賄賂を洗い流して天の誡めに答えるべきである。大雅に「天の怒りを敬え、あえて戯れ楽しむなかれ」というのはこのことである。
- 大将軍と河南尹は周公・召公の任にあって社稷の鎮めであり、加えて王室と旧縁の姻族である。今日その称号が尊いのは当然だが、天下がひたすら願っているのは、思い切って謙譲の節を修め、急がぬ遊興の費を省き、邸宅の無益な飾りを減らし、儒術に親しみ経書を論じ、天子を輔けて確かな効を挙げることである。
- 朝廷は舟、民は水である。朝廷の群臣は舟に乗る者、大将軍兄弟は櫂を操る者である。乗る者が多くても、行き先は操る者の意のままだ。志を遂げ力を尽くし、常軌を守って民を渡してこそ福である。もし中流で怠って櫂を投げ捨てれば波間に沈み、咎を負うことになる。慎まずにおられようか。
- 臣は辺地に生まれ育ち宮中を歩くことも稀で、恐れおののいて心を尽くしきれなかった、と。
- 梁冀は自分に触れた点を憤り、皇甫規の対策を下等とした。規は郎中を拝したが、病と称して免職し帰郷した。
盗賊と減刑
- 冬十一月、九江の盗賊である徐鳳が上将軍を称し、吏民を殺し掠奪した。
- 己酉、郡国の死罪の囚人を死一等減じて辺境の守備に移した。
殤帝の廟の序列をめぐる議論
- このころ殤帝の廟の順位が順帝の下に置かれた。鴻臚の周挙が議した。
- 春秋で、魯の閔公に子がなく庶兄の僖公が代わって立ったとき、僖公を閔公の上に位置づけたのを孔子は譏った。経に「大事を太廟で行い僖公を上に躋す」とあり、伝は「逆祀である」という。定公の代にこれを正して下げ、孔子はこれを是とし、経に「先公に従って祀る」と記して万代の法とした。
- 殤帝は先で親としては父、順帝は後で親としては子にあたる。先後の義は改められず、昭穆の序は乱してはならない、と。帝は従わなかった。
周挙の人となり
- 周挙は字を宣光といい汝南汝陽の人。聡明で識見が広く文章を善くし、学者は「五経縦横、周宣光」と讃えた。
- 初め司徒の掾に召され、次第に昇って州刺史となり、尚書令の左雄に推薦されて尚書となった。
- まもなく左雄が司隷校尉となり、詔書で勇猛で将帥に堪える者を選ぶよう命じられたとき、左雄は前の冀州刺史の馮直を選んだ。馮直はかつて罪に坐して死一等を減じられた者で、勇猛の実績もなかった。周挙は左雄を弾劾した。
- 左雄が再び尚書令になったとき、挙に、詔書は私に勇猛な者を選ばせたので清廉高潔な者を選ばせたのではないと言った。挙は、詔書は勇猛な者を選ばせたので、貪汚の者を選ばせたのではないと答えた。
- 雄が、君を引き立てたのは自分で自分を伐つことになったと言うと、挙は答えた。昔、趙宣子が韓厥を司馬に任じたところ、厥は軍法によって宣子の御者を斬った。宣子は大夫たちに、私を祝ってくれ、韓厥を選んで彼はその任に堪えたのだと言った。今、君は私の不才を顧みず誤って朝廷に登用してくださった。君に阿って君の恥となることはできない。君が趙宣子と違うとは思わなかった、と。
- 左雄は謝して心服した。挙の公正で屈しないさまは、みなこの類であった。