後漢紀巻第十八 孝順皇帝 永和二年 137年

武陵蛮の叛乱と人事

  • 春、武陵の蛮夷が、貢納が旧来の取り決めと違うとして叛いた。
  • 三月乙卯、司空の王卓が薨じた。
  • 丁丑、光禄勲の郭乾を司空とした。
  • 夏四月丙申、地震があった。
  • 五月癸丑、山陽君の宋娥が罪を得て里の家に帰された。

日南の反乱と李固の七不可

  • 秋七月、日南の蛮が反し、交阯刺史の樊演が討伐に出て敗れ、賊はそのまま郡県を攻め掠めた。帝は深く憂え、議者は大将軍を派遣して荊・揚・兖・豫の四万人を救援に向かわせるべきだとした。
  • 大将軍従事中郎の李固が議して、七つの不可を挙げた。
  • 第一に、荊州・揚州が平穏ならその地の官兵で救えばよいが、今は荊揚に盗賊が盤踞し、武陵・南郡の夷は収まらず、長沙・桂陽は度重なる徴発ですでに疲れており、再び動かすのは難しい。
  • 第二に、兖州・豫州の民に万里の遠征をさせれば帰る当てがなく、十五万戸から一人の兵も得られぬ恐れがある。郡県が急き立てれば叛亡が起こる。
  • 第三に、南方は湿熱で瘴気があり、死者が十のうち四五に及び、必ず道中で逃散して止められない。
  • 第四に、兵士は到着する頃には万里の疲労で戦えない。
  • 第五に、行軍は一日三十里、九千余里で三百日かかる。一人一日五升として米十万斛、将吏や驢馬の飼料は含まずしてこの費用である。
  • 第六に、軍が着いても死者が多ければ足りず、さらに徴発することになる。これは心腹を切り取って四肢を楽しませるようなものである。
  • 第七に、今は二郡の叛徒が互いに攻め合っているが、それも徴発が原因である。まして四州を発して万里に赴かせるなど論外である。
  • 前例として、中郎将の尹就を益州に遣ったとき、益州には「賊が来るのはまだしも尹が来れば我らを殺す」という諺ができた。のち尹就を召し返して兵を刺史の張喬に預けると、民の困窮につけこんで一月ほどで賊を殲滅した。将を派遣しても益がなく、州郡に任せられる証拠である。
  • 提案として、勇略と仁恵を備えた者を刺史・太守に選び、正面から戦わず恩信で招き寄せ、殺傷の罪を赦して出兵を止める。前の并州刺史の祝良は果断であり、張喬は先に益州で賊を破った実績があり、いずれも用いられる。
  • 文帝は馮唐を遣って魏尚を赦し雲中太守とし、楚の龔舎をその地で泰山太守に任じた。祝良らも直ちに任命してそのまま任地へ向かわせるべきである。
  • そこで祝良を九真太守、張喬を交阯太守に任じたところ、二郡はただちに安定した。
  • 冬十月、長安に行幸して陵廟を祀った。
  • 丁卯、都で地震があった。