梁皇后の冊立
- 春正月乙丑、梁氏を皇后に立て、天下の男子に爵を等級に応じて賜い、身寄りがなく重病や貧困で自活できない者には一人三斛の粟を与えた。
- 后は梁商の娘。梁竦の次男の雍が商を生み、商は父の爵を継いで乗氏侯となった。商には三男四女があり、長男は冀、次は不疑、次は蒙、長女の田次姫が后、次が阿重である。
- 后は生まれるとき光の瑞があり、長じて史書を好み『韓詩』の大義を修め、列女図を常に身近に置いた。一族の内外がその賢さを敬った。
- 梁商は弟や子らに、先祖が西河を鎮撫して数え切れぬ民の命を救いながら高位を極めなかった、積徳の報いは本人に及ばずとも必ず子孫に流れる、この娘によって家が興るのだろうと語った。
- 掖庭に選ばれて入ると、人相見の茅通が見て驚き、日角偃月という極貴の相だと言った。そこで貴人とされ、梁商は侍中・屯騎校尉を拝した。
- 貴人は寵愛を受けたが、帝にさりげなく、陽は広く施すことを徳とし陰は独占しないことを義とする、螽斯の福があってこそ多くの子孫が栄えるのだから、陛下は広く恵みを行き渡らせ、後宮の順序を公平にして、私が嫉妬の謗りを受けずにすむようにしてほしいと述べた。帝はますますこれを善しとし、寵はいよいよ固くなった。
梁商の辞退
- 三月庚辰、天下に大赦した。
- 夏四月、有司が旧例により梁商に特進の位を加え封地を増そうとしたが、梁商は上書して辞退した。禄も命も過分で祖先の福を多く受けており、その上に帝室の余光に頼って、わずかな器量で君子の器に乗れば身に余る災いを招き、代々の栄誉を保てない、旧制どおり左賢と同格にしていただきたい、と十数回上書し、帝はそのつど諭した。
- 梁商はさらに校尉の職を辞す上書をした。后妃の縁で栄寵を蒙り、二つの官を兼ねるのは器量の及ぶところでなく、恐懼して安んじられぬとして屯騎校尉の印綬を返上した。帝はこれを許し、特進のまま邸に下がらせ、安車と四頭立ての馬を賜った。まもなく執金吾を拝した。
望都の狼害と減刑
- 冬十月、望都で狼が数十人を食い殺した。『本志』は、言葉が聴かれないと毛虫の妖が生じるとし、京房の易は、君に道がなければ害が人に及び、深山に去って身を全うすることになる、その災いが狼の人食いだとする。
- 詔して天下の死罪囚を一等減じ、逃亡者の贖罪も等級に応じて認めた。
- 鮮卑が遼東を侵した。
- 十一月丁未、東平王の敞が薨じた。敞は孝行があり母の喪を三年、礼のとおりに勤めたので、詔で封戸五千を加えられていた。
左雄の長吏久任の上疏
- 当時は地方長官の交代が頻繁で、その費用が問題となっていた。尚書の左雄が上疏した。
- 遠近を安んずるには民を安んずるに越すものはなく、民を安んずる要は賢者の登用にある。皋陶が禹に答えたのも人を知ることの重さであった。
- 三代は諸侯を封建して世襲させたので民は和睦した。周が滅び秦が六国を併せると儒を抑え古典を滅ぼし、五等の爵を廃して郡県に令を置き、民を食い物にした。漢はその苛政を除いて法三章とし、旧慣に従って撫し、文帝・景帝に至って天下は安定した。これは静かに構えて民を騒がせなかったからである。
- 宣帝は民間から出て世の病弊を知り、名と実を照合し賞罰を必ず行った。刺史や国相が任命されると自ら引見して問い、退いてから実際を調べて言葉と照らした。民が安らかで憂えないのは政治が公平な良吏のおかげであり、それを共にできるのは良き二千石だけだと常に嘆じていた。
- 官吏が頻繁に代われば民は生業に落ち着けず、長くないと分かれば偽って利を求める。そこで治績のある二千石には璽書で励まして俸秩を加え金や爵を賜い、封侯にまで至らせ、公卿に欠員が出れば順に登用した。だから官はその職にふさわしく民は生業に安んじ、瑞祥が現れ中興の功が成った。
- 漢の建国から三百余年、風俗は衰え偽りが芽生え、下は詐りを飾り上は残虐をほしいままにする。百里の城を治める者が頻繁に動き、殺害を有能とし道理に従うのを無能とし、収奪を有能とし身を修めるのを弱腰とする。髠鉗の刑がわずかな恨みから生じ、死者を出す禍が一時の感情から起こる。民を敵のように見て狼のように税を取る。
- 監察の官は互いに見張っていながら不正を挙げず、宿駅で政治を眺め、伝聞で成果を求める。善を言うのに徳を確かめず、功を論じるのに実を検めない。虚偽の者が引き立てられ、身を慎む者が退けられる。罪によってかえって高位に至る者もあり、危うい状況を利用して名を成す者もある。天災がしばしば下り治世が定まらぬのはすべてこれが原因である。
- 提案として、治績の顕著な長吏はその地で俸秩を加えて転任させず、父母の喪以外では官を離れさせない。この定めに従わぬ者は終身禁錮とし、恩赦があっても任官の列に加えない。そうすれば争って善政を修め、民はそれぞれの地に安んじ、文帝・宣帝の中興の跡に並ぶ功が永く伝わるだろう。
- これによって、理由なく官を去ることを禁ずる制がふたたび強化された。
郎顗の上書
- 閏月壬子、恭陵の廟が焼けた。
- 北海の人、郎顗が上書した。天が誡めを垂れ地が災異を示すのは人主を譴責し、克己と修徳を促すためである。ゆえに天に応えるには誠を用い言葉を用いず、下を導くには自身の行いを用い刑罰を用いない。
- 近ごろ宮殿や官庁の修飾が多い。昔、盤庚は殷に遷って奢を去り倹に就き、夏后は宮室を質素にして力を尽くし美を成した。修繕は減らして貧民を憐れみ孤寡を救うべきで、それが天意にも人望にもかなう。
- 陛下は自ら政務にあたり、詔書はそのつど忌憚のない言論を求め、天下を憂い百姓を思っておられる。しかし公卿を頻繁に召して政事を責めないのは、悠然と徳を養う道ではあろう。
- とはいえ三公は陰陽を調和し百官の模範となる者である。水旱が続き五穀が実らぬのに憂えず、官の序列が乱れ諸事が治まらぬのに正さず、ためらい寝そべり、病と称して安逸にふけり、天下の憂いを忘れて安楽を貪るのは間違いである。
- 尚書が委細を問うと、郎顗の答は術数や占候の話が多かった。要旨は、三公が適任でないため飢饉・水旱・地震・盗賊の変が起こるというものであった。
- その後、海賊が会稽を攻め、青州・徐州に盗賊が起こり、西羌が反し、翌年四月には都で地震、その夏には大旱があり、ほぼ言葉どおりになった。
史論(華嶠曰)
- 漢の十代目に王莽が位を奪ったころ、道術の士である西門君恵や李守らが「劉秀が天子となる」という讖をしきりに唱えた。光武は布衣のときからこれを口にし、のちに実際に天子となったので、讖書を篤く信じた。
- そのため鄭興は意に逆らって疎んじられ、桓譚は遠地に追われて憂死した。明帝・章帝もこの意を受け継いだので、後世は図讖の学を競い、世に取り入って身を立てる道具にした。
- そこで賈逵・馬融・張衡・朱穆・崔寔・荀爽といった通儒はこれを憤り、いずれも虚妄で経典に合わぬものとして、すべて封印すべきだと上奏した。
- ただしこの事柄は奥が深い。古を善く語る者は今に験があり、天を善く語る者は人に験がある。天の暦数や陰陽の占候は今こそ急務であり、占候術数は天を仰ぎ地を察して人事に照らし、禍福吉凶が現に的中するのだから、それを教義に引くにも明らかな根拠がある。これが道術が後世に益をもたらし、後人に尊ばれる理由である。