梁冀の封侯と乳母の封爵
- 夏四月丁丑、虎賁中郎将の梁冀を襄邑侯に封じた。執金吾の梁商は上書して辞退し、その言葉は切実で、十数回にわたる上書の末に帝はついに聴き入れた。
- 乳母の宋娥を山陽君に封じた。
左雄の諫言
- 尚書の左雄が諫めた。高帝の約定では、劉氏でなければ王とせず、功臣でなければ封じない。孝安皇帝が江京や王聖らを封じたときはいずれも地震の異変があり、永建二年に陰謀の功を封じたときも日蝕の変があった。術数に通じた者はみな、時宜を得ぬ封爵の咎だとした。
- 今、青州・徐州は飢饉で盗賊が止まず、陛下は励んで民を救うことを思うべきときである。清浄無為で天意を求めるべきで、私的な小さな恩義を報いるために大法を損なうべきではない。帝は従わなかった。
- 左雄は重ねて諫めた。君主で忠正を好み讒諛を憎まぬ者はないのに、臣下は忠によって罪を得、讒によって寵を得る。忠言は受け入れられにくく、讒言は耳に心地よく従いやすいからである。刑罰は人情の最も嫌うところゆえ、世に忠を尽くす者は少なく諛いに慣れた者が多い。そのため人主は美言ばかり聞いて過失を知らず、迷ったまま危亡に至る。
- 尚書の先例に乳母へ爵を賜う制はない。ただ先帝の時、乳母の王聖が野王君となり、讒言と廃立の禍を生み、生きては天下に噛みしめられ死しては海内に快哉を叫ばれた。
- 桀紂は天子として貴かったが下僕でさえ比較されるのを嫌う。富んで義がなかったからである。伯夷・叔斉は匹夫より賤しかったが王侯が同類と称されたがる。貧しくて徳があったからである。
- 今の乳母は倹約を身をもって行い下々の模範となり、官も庶民もその風に向いている。それを王氏と同じ爵号にすれば、本来の節操に背き常の在り方を失わせる恐れがある。人の心は大差なく、落ち着かぬと感ずる点は遠近を問わず同じである。
- 王聖の禍はまだ人の口に絶えず、傾覆の勢いは積み上げた卵より危うい。毎年銭一千万を乳母に給すれば、内には恩愛の情を尽くし、外には吏民に怪しまれずにすむ。帝はついに従わなかった。
左雄と孝廉の年齢制限
- 左雄は字を伯豪といい南陽沮陽の人。貧しい中で学を好み、常々、労役に服していては学問が足りず、学問が足りると怠けがちになると考え、経術を尊び太学を修繕すべきだとした。尚書となってこれを述べ、帝は容れて弟子の定員を増やし、儒者を郎に任ずること百余人に及んだ。
- 左雄は上言した。郡国の孝廉は古の貢士で、任地に出れば民を治め教化を行き渡らせる者である。学がなければ教化を施せず、災いを招いて害は小さくない。孔子は四十にして惑わずと言い、礼にも四十で仕えるとある。
- 今後、孝廉は四十に満たなければ推挙を認めず、みなまず公府に出頭させ、儒生には家伝の学を、文吏には上奏文を試し、端門で再試験して実力の虚実を見極め、優れた能力を見出して風俗を良くする。規定に従わぬ者は法によって罪を正す。
- 帝はこれに従い、郡国の孝廉は四十歳以上で徳行を審査し経学を試験する、茂才や特異な行いの者で顔淵や子奇のような者は年齢に拘らない、と詔した。
- ある年、推挙された孝廉の徐淑は年齢が規定に達しなかった。台郎が詰問すると、詔書に顔淵・子奇は年齢に拘らずとあるので本郡が自分を選に充てたのだと答え、郎は言い負かせなかった。
- 左雄が、昔の顔淵・子奇は一を聞いて十を知った、孝廉は一を聞いて幾つを知るのかと詰めると、徐淑は答えられず、郡へ送り返され、郡守は連坐して免ぜられた。このとき推挙の責を負って処分された郡国の守相は百余人に及んだ。
九卿への鞭杖の廃止
- 明帝の時は政治が厳しく、九卿もみな鞭や杖の刑を受けていた。
- 左雄が上言した。九卿の位は三公に次ぎ大臣の列にある。歩みには佩玉の節度があり、挙措には礼法の作法がある。それに鞭杖を加えるのは古典に反する。帝はただちにこれを廃した。
史論(袁宏曰)
- 事を計り制度を作るのは、世を治め人を導き、必ず実行できるようにするためである。
- 古の四十にして仕えるという言葉は、出仕の機会が必ずその年齢だという意味ではない。事に堪えられるのは体力気力の盛んな時期だから、おおまかな線を引いて民の目安としたのである。
- しかも顔淵や子奇は幾代かに一人出るかどうかの人物であり、それを基準にしようとするのは偏っていないか。
敦朴の士を求める詔
- 己亥、都で地震があった。
- 五月庚子、詔を下した。不徳の身で大業を継ぎ、天地に従い陰陽を調和させることができず、災異がしばしば現れ凶兆が続いている。群臣は何をもって自分の至らぬところを補い、災異に答えるのか。災異は無意味に起こるものではなく必ず応ずるところがある。それぞれ実直な士を一人推挙し、その咎を忌憚なく直言させよ、と。
李固の対策
- 漢中の李固が答えた。天は言葉を発せず災異によって譴告する。政治の治乱、君主の得失はすべて上帝が窺い、災いや瑞祥で応ずるものである。王者は天を父、地を母とし、山川をその体とする。今、日蝕・地震・山崩れが起きて、君主はどこに立ち万物はどこに拠ればよいのか。
- かつて江京の姦計が骨肉に及び、陛下は幽閉され艱難を嘗められたが、天が助けて陛下が即位され、海内は喜んだ。本来ならば大きく方針を改め、権臣を退け善政を求めて天意に順い、夜に思い当たれば座して夜明けを待つほどでなければならなかった。ところが今は政令が乱れ、以前の轍を再び踏んでいる。草莽の身として痛憤に堪えない。
- 陛下の聖徳は時に応じて真に好機に当たっている。衰えた政治を改め中興の美を広げるのは、掌を指すように容易である。
- よい刑罰はよい政治に及ばず、よい褒賞はよい教化に及ばない。よい教化は内から起こすべきである。周の宣王も孝文帝も中興の主だが、いずれも華美な服を改め、思い切って規範を変えて風俗を移し、古に並んだ。
- 今、乳母を封じた恩賞は過分であり、常侍ら近臣の威権は重すぎる。図書災異の示すところもそうである。今こそ邪佞を四方の果てに追い、正直な者を引き入れて側に置くべきである。
- 陛下自ら徳のある言葉を発して人材を招き、御座に臨んで公卿と会い、意にかなう発言があればただちに実行してその人を抜擢し、忠良を顕彰すれば、陛下は日々聞くところがあり、忠臣は日々献ずるところがあり、君臣は一体となって上下が通じ合う。
- 養育の功があっても、その労には財貨を賜って子孫に伝えさせればよい。土地を割いて爵を分かつのは天意ではない。漢の興隆以来、賢君が続いたが、乳母の養育がなかったわけでも寵愛しなかったわけでもない。天威を畏れ経典を省みて、あえて封じなかったのである。
- 梁氏の子弟や一族が列侯に召されるのは、永平・建初の先例に照らしても度を越している。妃后の家に無事に存続する者が少ないのは、天性がそうなのではなく、権勢と寵愛が過ぎて天道に憎まれるからである。
- 天に北斗があって元気を按配するように、帝には尚書があって王命を出納する。賦役が公平なら民は安く、政務が治まらねば天下は乱れる。今、陛下が天下を共に治めるのは、外は公卿・尚書、内は常侍・黄門である。一つの家の中のようなもので、安ければ福を共にし危うければ禍を共にする。だから権柄は慎重に扱い、号令は周到でなければならない。
- 人君の政治は水に堤防があるようなものである。堤防が完全なら大雨長雨でも変事にならず、政教が確立すれば一時の凶年も憂うるに足りない。堤防が漏れれば万人の力でも救えず、政教が崩れれば賢者智者が奔走しても元に戻せない。今の堤防はまだ堅いが少しずつ穴が生じている。
- 人の体に譬えれば、朝廷は心腹、州郡は四肢である。心腹が痛めば四肢は動かない。臣が憂えるのは腹心の病であって四肢の患ではない。堤防を固め政教に努め、まず心腹を安んじ朝廷を整えれば、賊や水旱の変があっても気にするに足りない。堤防が漏れ心腹に病があれば、水旱の災がなくとも天下は憂えざるを得ない。
- 亡父の故司徒の郃は先帝の厚恩を受けた。その子孫として自分をただの下役と同列に置くわけにいかないので、あえて図書に依拠して心を尽くして答え、いつわりを述べることはしない。
馬融の対策
- 扶風の馬融が答えた。天の道を立てるのは陰と陽、地の道を立てるのは柔と剛である。陰陽剛柔によって天地は成り立つ。仁を陽に取り義を陰に取り、柔で徳を施し剛で刑を行い、それぞれ時節に従って万物を厚くする。
- 帝王の法も、天地が位を定め四時が順序を追うのに倣う。王者がこれに従えば風雨は時に応じ嘉禾が茂り、天がその度を失えば凶兆が並び現れ飢饉が重なる。
- 今の法令や制度は、天を承け民に順うものとして十分に整い、これ以上加えようがない。それでも不公平な結果があり嘆きの声があるのは、民が恩沢の言葉をたびたび聞くばかりで、恵みの実を見ないからである。
- 今の為政者は法度を軽んじ、殺戮と厳刑を有能さとする。国の相や令長を評するのに、褒めるときは「厳しすぎる」と言い、貶すときは「緩すぎる」と言う。急は寒を招き緩は暑を招く。両者は同じ罪なのに、論者は厳しさのほうを許す。これが陰陽の調和しない理由である。
- 回復の道は、緩急に対する評価を吟味し、寒暑いずれの罪も等しく問うて王政を尊ぶことにある。好悪が明らかになれば官吏は何を避け何に就くべきか分かる。
- さらに自ら身を正して先に立ち、厳しくせずに臨んでも改まらぬなら刑罰の用い方が誤っている。善を行えば必ず利があり悪を行えば必ず害があると知れば、教化されない者はなく、官は良くなる。
- 洪範の八政は食を第一とし、周礼の九職は農を本とする。民が耕作と養蚕を失えば飢えと寒さが同時に来て、盗賊の源が生じる。
- 古に民を足らせたというのは、仰いでは父母を養い、俯しては妻子を養えることであり、その上で五教を篤くし三徳を宣べれば、良い教化が実現できた。
- 足るとは一軒ごとに支給することではなく、財用を量って制度を定めることである。婚礼が倹約なら婚姻は適齢で行われ、喪礼が簡素なら死者は葬られる。農時を奪わなければ農民は生業を失わない。妻子を思って心を縛り、生業を思って志を重くすれば、それを捨てて非行に走る者は多くない。
- 今はそうなっていない。これが盗賊の絶えない理由である。制度が必ず行われ禁令が必ず守られれば、士は法の外にはみ出さず、職人は無用の器を作らず、商人は得難い品を流通させず、農民は三時の農務を失わない。生業に安んずれば盗賊は消え災害も起こらない。
張衡の対策
- 太史の張衡が答えた。政治が善ければ吉祥が下り、政治が悪ければ凶兆が現れる。聖人でない限り誤りはあり得る。
- 昔、成王が周公を疑ったとき大風が樹木を抜き、金縢の書を開くと風が逆に吹いた。天と人の呼応は影や響きより速い。詩にも、高い所にいるからと言うな、日々ここを見ておられる、とある。
- 近ごろ都で地震があり雷電が激しく鳴った。動静に常がなく正道を改めれば、突然の雷や地割れの異変が起こる。
- 孝廉の推挙が始まって二百年、いずれも孝行を第一とし、余力があってはじめて法令の学に改めた。ところが辛卯の詔で章句を述べ上奏文を書けることを条件としたため、至孝の者でも規定に合わなくなった。これは根本を捨てて末に就くものである。
- 曾子は孝に優れたが実は鈍く、文学では子游・子夏に及ばず、政事では冉有・季路に及ばなかった。今それを一人に兼ねさせようとすれば、外見が整っていても内には必ず欠けがある。孝廉を選挙する趣旨に反する。
- また郡国の守相は符を分けて境を安んずる大臣なのに、一挙に十余人が免職された。吏民は送迎の労に疲れ、新旧交替の際に公私の乱れが生じる。政治に臨んで民のために便宜を図ったのに、小さな過失で免ずるのは、民から父母を奪って嘆かせるようなものである。
- さらに選挙をすべて三府に委ねているため、台閣の機密が外に漏れ、賄賂が横行し情実が通り、真偽が入り混じって清明な朝廷を混乱させる。これは下が上を凌ぎ、威と徳を分け合うことであり、災異が起こるのも当然である。
- 易には遠からず復るといい、論語には過ちを改むるに憚るなかれという。友人づきあいですら過ちを翌日に持ち越さない。まして帝王が天を承け万物を治め、天下を公とするならなおさらである。
- 近ごろ妖星が上に現れ地割れが下に現れ、天の誡めは明白で寒心すべきである。明察な者は禍を芽のうちに消す。すでに兆しが現れた以上、政治を正して恐れ慎めば、禍を転じて福とすることができる。
李固の登用と梁商への進言
- 帝は諸家の対策を読み、李固の対を第一とした。常侍たちはみな叩頭して謝罪し、朝廷は粛然とした。李固を議郎に任じた。
- 権臣たちは李固を憎んで罪に落とそうとしたが、朝廷の名臣である黄瓊らが力を尽くして弁護した。その年のうちに梁商が請うて従事中郎とした。
- 梁商は后の父として輔政の任にあったが、柔和で自らを守るのみで、宦官の乱政を抑えることができなかった。
- 李固が梁商に書を送った。今、天下は乱れ、義に背いて利に走り、父は子に勧め兄は弟に勧めて、まず値を論じてから地位を決める有様である。一人の賢者を得れば国はその功に頼り、一人の悪人を招けば天下がその害を被る。数年来、怪異がしばしば起こり、宮中には必ず陰謀がある。将軍は位が高く世に重きをなす身、王政をひとたび整えれば必ず不朽の福を得られる、と。梁商はこれを用いることができなかった。
三公の交代と地割れ
- 戊午、太尉の龐参と司空の王龔(原文は「黄龔」)が災異の責を負って免ぜられた。
- 六月、太常の孔扶が司空となった。
- 丁丑、洛陽の宣徳亭で地面が八十五丈にわたって裂けた。『本志』は李固の言を引き、陰の類が専横すれば分裂の兆しが現れるとし、その後の中常侍の専権と争いがその応だとする。
- 八月己巳、大鴻臚の施延が太尉となった。
- 冬十月、はじめて月の律に合わせて応鍾を作った。