春正月・三月 安帝の崩御
- 正月壬午、黄龍二頭と麒麟一頭が濮陽に現れた。
- 三月戊午朔、日蝕があった。
- 庚申、天子が宛に行幸し、章陵を祀ろうとしたところ体の不調を覚え、乙丑には重篤となって宛から還った。
- 済北王・河間王の子で十四歳以下七歳以上の者を京師に召した。皇后の母である北宜春夫人の号を進めて滎陽君とした。
- 丁卯、帝が葉で崩じたが、喪は発せられなかった。庚午に宮に還り、辛未になってようやく喪を発した。
北郷侯の擁立
- 皇后は兄の閻顕と謀り、召し寄せていた済北王の子である北郷侯の懿を帝の嗣とした。閻顕は車騎将軍となった。
- 乙酉、北郷侯が皇帝の位に即き、太后が朝に臨んだ。
- 夏四月丁酉、太尉の馮石を太傅、司徒の劉喜を太尉とし、ともに尚書事に参録させた。もと司空の李郃を司徒とした。
- 有司が奏し、大将軍の耿珍、中常侍の樊豐、野王君の王聖とその娘の王永を獄に下して誅した。
- 己酉、孝安帝を恭陵に葬った。
- 六月乙巳、天下に大赦した。
冬 北郷侯の死と孫程らの政変
- 冬十月丙午、蜀郡越嶲で山が崩れ、四百余人が死んだ。
- 辛亥、北郷侯が薨じた。
- 車騎将軍の閻顕と中常侍の江京らは、前に済北王を用いなかったのに今これを立てれば後で必ず怨まれる、と謀り、太后に進言して済北王と河間王の子を召し、嗣に立てようとした。
- そもそも太子(済陰王)は廃されてから徳陽殿の西の鐘の下に住んでいた。中常侍・黄門の孫程、王成、王国らは常に憤懣を抱き、これを立てようと謀って中常侍の侯生・李閏に告げ、省門の外で中常侍の江京・陳達・劉安を殺した。
- 王成は剣で李閏を脅して言った。太子の廃位に天下はみな怨んでいる。今、北郷侯が早くに薨じ、安帝には嗣がない。太子の保こそ明らかに天が開こうとしている。我らに従うか、と。李閏は承知した。
- そこで王成は李閏とともに尚書と僕射以下を並べて西鐘の下に至り、済陰王を皇帝に立てた。時に十一歳であった。雲台に登り百官を召した。
- 閻顕は帝が立ったと聞いて恐れ、どうすべきか分からなかった。小黄門の樊登が、なぜ兵を発して撃たないのかと言った。
- 閻顕は太后の詔をもって越騎校尉の馮詩と虎賁中郎将の閻景に兵を率いて平朔門に屯させた。樊登が馮詩らを省内に引き入れると、閻顕は馮詩に言った。済陰王の即位は皇太后の意ではない。璽綬はここにある。力を尽くして功を挙げれば封侯も得られる、と。
- 太后も使いを出して馮詩らに告げさせた。済陰王を捕らえた者は万戸侯に、李閏を捕らえた者は五千戸侯に封ずる、と。馮詩らはみな承知した。
- しかし急に召されたため率いていた吏士が少なく、閻顕は馮詩と樊登に左掖門の外で吏士を迎えさせた。馮詩はその機に自軍の営に戻り、事が敗れると見て樊登を撃ち殺した。
- 閻景は衛尉府に戻って兵を集め、乱を起こそうとした。このとき尚書の郭鎮が兵を率いて闕に赴き、公車門で閻景に出会った。郭鎮が車を降りて閻景に詔を伝えると、閻景は刃で郭鎮に斬りかかった。郭鎮は剣を抜いて閻景を斬った。
- 戊午、御史を崇徳殿に遣わし、閻顕らとその親族を捕らえて獄に下し誅した。妻子は日南に流された。
閻太后の処遇をめぐる論議
- そもそも天子が廃されたとき閻皇后も関わっていた。議郎の陳禅は、太后と天子には母子の恩がないのだから廃すべきだと議し、群臣もみな賛成した。
- 司徒掾の周挙が司徒の李郃に説いた。昔、瞽瞍は常に舜を殺そうとしたが、舜はいよいよ謹んで仕えた。鄭の武姜は荘公を殺そうと謀り、秦の始皇は母と絶ったが、いずれも潁考叔や茅焦の言に感じて子としての道を回復した。これらは前世の事跡で、書伝が美として伝えるところである。
- 今、閻氏一族が誅されたばかりで、太后は前の宮に幽居している。悲しみのあまり病を生じかねない。もし陳禅の議に従い、そこで変事があれば、後世は明公に咎を帰すだろう。取り返しのつかないことである、と。
- これが奏聞され、天子は従った。
十二月まで 葬送・封侯・詔
- 丁卯、王の礼をもって北郷侯を葬った。
- 辛巳、孫程・王国ら十九人を列侯に封じた。
- 司空の劉授は悪逆に阿附したとして免じられた。
- 十二月、詔があった。朕は不徳の身で大業を継いだ。今、陰陽が和せず疾疫が害をなしている。忠正の言を聞いて至らぬところを匡したい。三公・卿士は賢良方正で直言極諫できる士をそれぞれ一人ずつ推挙せよ、と。
楊震の名誉回復
- 楊震の門下の者が楊震の冤を訴えた。天子は楊震の忠を嘉し、二人の子を郎に任じ、銭二十万を賜り、礼をもって改葬させた。
- 改葬の日、翼の幅一丈三尺もある大鳥が柩の前に降り立ち、頭を垂れて涙を流した。人々が近づいても驚かず、葬儀が終わると飛び立って天に沖した。
- 甲申、少府の陶敦を司空とした。