後漢紀巻第十七 孝安皇帝 延光三年 124年

春二月 泰山行幸と祥瑞

  • 丙寅、天子が太子とともに泰山に行幸し、済陽の今年の田租を免除した。
  • 戊子、鳳凰が済陽に集まった。これを見た者に帛二十匹を賜り、鳳凰が通過した亭部には今年の租を免じ、天下の男子に爵二級を賜った。
  • 壬辰、汶上の明堂で五帝を祀った。
  • 戊戌、闕里で孔子と七十二弟子を祀り、そのまま東平・魏郡・河内に行幸した。

楊震の策免と趙騰の獄

  • 壬戌、太尉の楊震が策免された。
  • そもそも河内の人である趙騰が闕に詣でて上書し得失を陳べたところ、捕らえられて取り調べを受け、詔により獄に下された。楊震はその狂直を庇って上疏した。
  • 堯舜の朝には直諫の鼓と誹謗の木が設けられていたと聞く。四門を広く開いて直言の路を開き、薪を負う者の言まで採って賢愚の情を尽くそうとしたのである。趙騰の命を全うさせ、蒭蕘の言を納れていただきたい、と。
  • しかし従われず、趙騰はついに都の市で死んだ。中常侍の樊豊らはこれを機に楊震を讒言し、趙騰の死後は深く怨んでいるとした。そこで楊震は策免され、印綬を収められて本郡に帰されることになった。

楊震の死と人となり

  • 洛陽の沈亭に至ったとき、楊震は子らを顧み、門生に向かって語った。
  • 人は金石ではなく、死ぬのは士の常である。自分は恩を蒙って上司の位にありながら、姦臣樊豊の狡猾を憎みつつ誅せず、悪しき女王聖の乱れを禁じることもできず、国庫が空しく賞賜が節度を失っているのを知りながら正すこともできなかった。どの面目で日月にまみえようか。
  • 死んだら雑木で棺を作り、漆も塗るな。布の単衣は体を覆う程度でよい。墓地に帰葬するな。祭祀も設けるな、と。
  • そして鴆を仰いで死んだ。
  • 楊震は字を伯起といい、弘農華陰の人。博学で究めないものはなかった。数十年にわたり州郡の召しに応じず、人々は遅すぎると言ったが、志と学業はいよいよ篤くなった。五十を過ぎてようやく州郡の命に応じた。大将軍の鄧隲がこれを聞いて辟召し、賢者として茂才に挙げ、累進して荊州刺史・東萊太守となった。
  • 郡に赴任する途中、昌邑を通ったとき、かつて自分が茂才に挙げた王密が昌邑令をしていた。王密は夜になって謁見し、懐から金十斤を出して贈った。楊震が「故人は君を知っているが、君は故人を知らないのだな」と言うと、王密は「夜更けで知る者はおりません」と答えた。楊震は「君が知り、我が知り、天が知り、地が知る。どうして知る者がないと言えるのか」と言った。王密は恥じ入って退出した。
  • 楊震の言行が心に恥じないのは、すべてこの類であった。子孫は常に粗食で歩いて暮らした。旧知の年長者が産業を興させるよう勧めると、楊震は「後世に清吏の子孫と言われるようにする、これを遺産として残せば貴いことではないか」と答えた。
  • 公卿となってからも古を尊び朴を守り、誠の心を推し進め、事を言上するたびに文辞を飾らず、その意はひたすら臣主のためを思い姦を憎むことにあった。
  • 子の楊秉も義を正すことで名を知られた。

史論(袁宏曰)

  • 生きて存らえることを楽しむのは天の性である。困窮して通ずることを思うのは物の勢いである。愛して忠を尽くすのは情の働きである。
  • 生きて存らえるのが宜しいなら四体の重さを軽んじてはならない。困窮して必ず通ずべきなら天下の欲を捨て去ることはできない。愛して必ず用いるべきなら北面の節を廃してはならない。
  • この三つの道は、取捨の分においては同異の別があるが、全体として見ればそれぞれ天と人の理である。だから君子は身を処し心を託す先をそこに置く。古の道術にもこれにあたるものがあった。
  • 明を隠して困窮しても恥じないのは箕子の心である。蘧伯玉と寧武子はその風を聞いて悦んだ。
  • 否なるを捨てて通利につき、大人に見えるのは微子の趣きである。叔孫通はその風を聞いてこれを行った。
  • 諫めて君を輔け、死んでも二心を持たないのは比干の志である。楊震はその風を聞いてこれを守った。
  • これら数人の賢者は、聞いた風に従って行い、身を託した先はそれぞれ違うが、いずれも終始一貫した道であって、心に恥じることはなかった。
  • だから聖人は天理の区別を知り、物性の託するところに即し、多くの流れを混じえて広く通じ、一方に滞ることがない。そうしてこそ品類はその所を失わず、天下はそれぞれその生を遂げる。
  • ただし君子の行動は衆と謀って決めるものではない。天地の中にこれを求め、胸中に照らし、自らの心にかなうならば身を殺し軀を砕くことも難しくはない。志にかなわないなら、世を挙げて非難されても挫けないのである。

夏・秋 人事と反乱

  • 夏四月戊辰、光禄勲の馮石を太尉とした。
  • 五月、南単于の左尸逐が焼当の郡部を攻め、扶渠当らが叛いた。
  • 秋八月辛巳、大鴻臚の耿珍を大将軍とした。
  • 戊子、麒麟一頭と白虎二頭が同時に陽翟に現れた。

九月 皇太子の廃立

  • 丁酉、皇太子の保を廃して済陰王とした。
  • 太子はかつて病を得たとき、野王君王聖の邸に避けて療養した。太子の乳母である王男、厨監の邴吉は、中常侍の江京・樊豐および王聖・王永らと言い争って是非を論じた。そのため王男らは讒言され、みな獄中で幽死し、父母妻子は日南に流された。
  • 太子は王男らを慕って何度も嘆息した。王聖と王永は後の禍を恐れ、江京・樊豐とともに太子を讒言し陥れた。
  • このとき閻皇后の寵が盛んで、江京・樊豐は閻顕らに取り入り信任されていたので、皇后とともに太子を毀ることに力を貸した。
  • 天子は大将軍と公卿を召して太子を廃すべきか議させた。大将軍の耿珍らは、太子は嫡嗣として奉ずるにふさわしくないと答申した。
  • 太常の桓焉、太僕の来歴、廷尉の張晧は反対した。邴吉らが謀ったことを太子は知らない。経説では十五歳に満たない者の過悪はその身に帰さないという。太子は幼いのだから、忠良な師友を選んで礼義で輔けるべきである。廃立は重大事であり、聖恩をもって詳しく審らかにすべきである、と。
  • 天子は中常侍を遣わし詔を奉じて諸大臣を脅した。大臣はみな色を失ったが、来歴だけは頑として争った。天子は来歴を免官し爵土を削った。この日、太子は廃された。
  • そこで光禄勲の祝諷、中郎将の閭丘弘、符節令の張敬、太中大夫の第五頡、中散大夫の曹成、諫議大夫の李泰、羽林右監の孔顕、治書侍御史の龍調、衛尉丞の楽闈、城門司馬の徐崇、開封の人である鄭安世らが、闕に留まって上書し、太子の冤を訴えた。

秋以降 恩赦と祥瑞・災異

  • 癸巳、天下の死罪を一等減じて辺境の戍に流し、亡命者の贖罪にもそれぞれ段階を設けた。
  • 辛亥、黄龍が歴城に現れた。
  • 庚申晦、日蝕があった。
  • 冬十月壬午、鳳凰が新豊に現れた。本志はこう解する。皇の極まらぬを「不建」といい、その時は龍蛇の孽がある。また、視ることの明らかでないのを「不哲」といい、その時は羽虫の孽がある。鳳凰は陽明の応であるから、明王でなければ隠れて現れない。およそ五色の大鳥で鳳凰に似たものは多くが羽虫の孽である。このとき天子は讒言を信じて楊震を免じ太子を廃した。不哲の異である、と。
  • 丁亥、長安に行幸して陵廟を祀った。
  • 十二月乙未、黄龍が琅邪に現れた。
  • この年、京師と二十二の郡で地震があった。