後漢紀巻第十七 孝安皇帝 延光二年 123年

春正月 張璫の西域三策

  • 敦煌太守の張璫が上書して辺事を述べた。
  • 自分も京師にいたときは西域を棄てるべきだと考えていたが、実際にその地を踏んでみて、西域を棄てれば河西も自存できないと分かった、として三つの策を挙げた。
  • 上策。今、北虜の呼衍王らは蒲類海の一帯を転々としている。張掖・酒泉の属国の吏士と義従あわせて三千五百人を発し、崑崙塞に集結させて、まず呼衍王を撃ってその根本を絶つ。あわせて鄯善の兵五千人を発して車師後部を脅す。
  • 中策。出兵できないなら、軍司馬と将士五百人を置き、四郡がその糧食を供給して柳中に進出し拠らせる。
  • 下策。それもできないなら、交河城を棄て、鄯善などを手放してことごとく塞内に入らせる。

陳忠、西域経営の継続を主張

  • 尚書の陳忠が上疏した。その趣旨は次のとおり。
  • 八蛮の侵冦のうち北虜ほど甚だしいものはない。漢が興ると高祖は平城の囲みに苦しみ、太宗は貢ぎ物を送る恥に屈した。だから孝武は憤り、長久の計を深く考え、虎臣に命じて河を渡り漠を越え、その虜庭を突かせた。
  • そのとき民は狼望の北で命を落とし、中国は廬山の谷で疲弊した。府庫は尽き、機織りは空しくなり、車船にまで算賦を課し、六畜にまで資を及ぼした。それでも懐かないのではなく、そうせざるをえない理由があったのである。
  • こうして酒泉・敦煌など四郡を置いて両羌を隔て、三十六国を開いて公主を嫁がせ、匈奴の右腕を断った。それによって単于は孤立して遠く逃げ隠れ、宣帝・元帝の時代にはついに蕃臣となり、関所は閉ざされず羽檄も行われなくなった。
  • これで見れば、戎狄は威で服させられるが、教化で染めるのは難しい。西域が内属して久しく、東を望んで関を叩いた者は何度もある。これは匈奴を喜ばず漢を慕う証しである。
  • 今、北虜はすでに車師を破り、勢いから必ず南へ鄯善を攻める。これを棄てて救わなければ諸国は北虜に従うだろう。そうなれば北虜の財貨はますます増え、勢力はいよいよ盛んになり、威をもって南羌に臨んで結びつく。こうなれば河西四郡が危うくなり、救わざるをえなくなって、百倍の労役と計り知れぬ費用が生じる。
  • 今の議者はただ西域が遠く隔たり、これを恤むのに費用がかかることだけを念頭に置き、先代が苦心して精を尽くした意図を顧みない。
  • 現に辺郡の守備の装備は精しくなく、内郡の武備も整っていない。敦煌は孤立した隅にあって遠くから急を告げているのに、援けを回すこともせず、外に出ては民や吏を慰労せず、外に対して百蛮に威を示すこともない。穀を絶ち土地を縮めることは経典が明らかに戒めるところである。
  • 自分としては、敦煌に校尉を置き、旧例に照らして四郡の屯兵を増やし、西のかた三十六国を撫し、屯を建て兵を増やして雷風のごとき威を宣揚すべきだと考える。そうして万里の外で敵の鋒先を折り、匈奴を震え上がらせたい、と。
  • 天子はこれに従った。

夏四月 王聖の封爵と楊震の反対

  • 戊子、乳母の王聖に野王君の爵を与え、王聖の娘婿である劉瓌を朝陽侯とした。
  • 司空の楊震が闕に詣でて上書した。
  • 高祖は群臣と、功臣でなければ封じないと約した。城を攻め野に戦い、沙漠に身を棄て、百蛮の不羈の虜を降してはじめて茅土を受けられる。だから制度では父が死ねば子が継ぎ、兄が亡ければ弟が及ぶ。親疎を分け嫡庶を区別し、国体を尊び継嗣を重んじ、みだりな簒奪を防ぎ姦謀を絶つためで、百王が改めなかった道である。
  • 天子は勝手に封じるのではなく功ある者を封じ、諸侯は勝手に爵を与えるのではなく徳ある者に爵を与える。
  • 今、劉瓌には何の功徳もなく、ただ阿母の娘を娶っただけである。すでに侍中の位を汚しているうえ、一時のうちに封侯にまで飛び越えている。旧制に照らして経義に合わず、道行く人が騒ぎ立て、百官も落ち着かない。
  • 言えば罪を伴い、辞を発すれば咎を招くことは承知しているが、台輔の任を汚している以上、言い尽くさずにはいられない、と。
  • 天子は従わなかった。

阿母の邸宅造営と楊震の再諫

  • さらに阿母(王聖)のために邸宅を建てたので、楊震は重ねて上疏した。
  • 古は三年耕せば一年の蓄えがあり、九年耕せば三年の蓄えがあったと聞く。だから堯が洪水に遭っても民に飢えの色はなかった。伝には、国に三年の蓄えがなければその国ではない、とある。だから豊年には礼を知り、凶年には節減する。
  • 思うに災害は起こるたびにますます甚だしくなり、百姓は困窮して自らを養えない。加えて羌虜の掠奪で二辺は雲のように騒ぎ、戦闘の役は今も止まず、兵甲も軍糧も常に足りない。これは社稷を安んじる術ではない。
  • ところが津城門内に邸宅を興し、彫り飾りは巧妙を極め、使者や将作が互いに急き立て、盛夏で土の気が旺んな時期に山を削り石を採り、百姓が野に散らばって農民が生業を廃している。
  • 上の者が取り立てて財が尽きれば怨み、力が尽きれば叛くと聞く。怨み叛いた民は二度と使えない。だから「百姓足らずんば、君たれとともにか足らん」というのである、と。
  • 天子は従わなかった。

冬 人事と地震

  • 冬十月辛未、太尉の劉愷が長患いのため罷めた。司徒の楊震が太尉となった。
  • この時、京都と三十七の郡国で地震があった。