春 夫余の来援と大赦
- 春、夫余王が兵を遣わして玄菟を助け、使者を派して貢献した。
- 三月丙午、天下に大赦し、天下の男子にそれぞれ段階を設けて爵を賜った。鰥寡孤独や重病で自活できない者に一人あたり粟三斛、貞婦に帛三匹を賜った。
夏四月 地震と三公罷免をめぐる陳忠の論
- 夏四月、京師で地震があった。癸巳、司空の陳褒が災異によって免じられた。
- それでもなお風雷の変が続き、有司はまた三公を責めようとした。尚書僕射の陳忠が上書した。
- 君は礼をもって臣を使い、臣は忠をもって君に仕えると聞く。だから天子の三公は、内にあっては政事に参議し、外にあっては群臣を監察する。王者は己を虚しくして特別の礼で遇し、車上では軾に手を置き、座しては立って迎えた。漢の旧典では丞相の総べるところで聴かれないものはなかった。
- 今の三公には古の名だけがあって実がない。選挙も誅賞もすべて尚書から出ており、尚書の任は三公より重い。この衰えは久しく進んできた。
- 先ごろ地震によって司空を策免したが、今また三公を厳しく責めて天意を解こうという者がいる。自分は宋景が己に克った誠を信じる。孝成皇帝のとき妖星が心宿を犯したさい、賁麗の説を納れて丞相の翟方進を自裁させたが、結局福には与らなかった。これに照らせば是非の分は明らかに見える。
- 今、尚書が事を奏して何かを新設しようとしたり、天下の罪と法を決したりするさい、先例によらないものについては、左右の者にその意図を問い質させ、断って聴き入れないようにすべきである。上は古典の義に順い、下は威福の専断を防ぐ。方円を規矩に照らし、軽重を権衡で審らかにする。これこそ国家の典であり万国の法である、と。
- 陳忠の意図は大臣を尊び、下を礼をもって遇することにあった。九卿が病めば使者が見舞い、銭帛を賜るようになったのも、すべて陳忠の議による。陳忠は尚書令・司隷校尉に遷った。
陳忠と鄧氏をめぐる批判
- そもそも陳忠の父である太尉の陳寵は正を守って鄧氏に仕えなかったため、陳忠はその門で志を得られなかった。
- 鄧氏が誅されると庶民の多くはその冤を思ったが、陳忠はたびたび上書してその悪を書き立てた。また司農の朱寵を弾劾し、太子が廃されたときには来歴ら名臣たちが宮闕に留まって固く争ったのに、陳忠は彼らを弾劾した。当時の人はこれをもって陳忠を譏った。
五月以降 人事と災異
- 五月庚戌、宗正の劉授を司空とした。
- 秋七月癸卯、京師で地震があった。庚申、高句麗王が降伏を乞うた。
- 八月、羌が涼州を侵した。
陽陵寝殿の火災とその解釈
- 戊子、陽陵の寝殿が焼けた。
- 本志はこう解する。法律を棄て大臣を追放し太子を殺して妾を妻とすれば、火は炎上せず、火がその性を失って災いとなる。今それが先陵に起こったのは、天子に変事が起ころうとする象である。太子を廃して自ら枝を切り落とすべきでないのは、火が先陵の寝殿を害すべきでないのと同じだ、という意味である。
- 辛卯、九真に黄龍が現れた。
- 九月戊申、二十七の郡国で地震があった。
- 冬十月、鮮卑が雁門・定襄を侵した。十一月、鮮卑が九原を攻めた。