後漢紀巻第十六 孝安皇帝 元初二年 115年

春 賑給と災害

  • 郡国が被災したため、貧民に粟を賑給した。
  • 今上の即位以来この年まで水旱の災が続き、百姓は飢饉に苦しんだので、毎年使者を遣わして倉廩を開き飢民を賑わせた。
  • 三月癸亥、京都で大風が吹き、樹木を引き抜いた。

夏四月 閻皇后の冊立

  • 丙午、閻氏を皇后に立てた。河南滎陽の人で、閻暢の娘である。
  • 閻暢には五男二女があり、長男は顕、ほかに術・景・曜・晏がいた。長女は迎、次女は姫で、この姫が皇后である。
  • 選ばれて掖庭に入り貴人となり、寵愛を受けて皇后に立てられた。閻暢は長水校尉となった。
  • 太尉の司馬苞が薨じた。

秋 西羌の侵入

  • 秋七月、西羌が境を侵し、右扶風太守の种暠と南安太守の杜佐が撃ったが、いずれも殺された。
  • 九月壬午晦、日蝕があった。

冬十月 虞詡、任尚に騎兵化を献策

  • 郎将の任尚が兵を率いて三輔に駐屯した。懐令の虞詡が任尚に説いた。
  • 使君は国威を奉じて叛羌を討っているが、出兵から久しいのに誅に伏した者がなく、三州の屯兵二十万のために民は農桑を捨て、生業を失っている。これが上に聞こえれば実に危うい、と。
  • 任尚が「久しく憂え惶れているが、方策が分からない」と言うと、虞詡は答えた。
  • 兵法に、弱は強を攻めず、走る者は飛ぶ者に追いつけないという自然の勢いがある。今の虜はみな騎馬で、しかも馬が優れており、一日に数百里を行き、来るときは風雨のごとく、去るときは絃を切るように速い。歩兵で追っても届かないから、日を費やしても功がないのだ。
  • 諸郡の兵を解散させ、二十人で一頭の馬を買わせるがよい。民は数千銭を出せば甲冑を免れ行伍を離れられる。こうして一万騎の軍で数千の虜を追えば、その退路を断ち截つことができる。自ずと敵は窮し、民にも便で事にも利があり、大功は必ず立つ、と。
  • 任尚はこれに従って羌戎を大破し、残る種族もことごとく降伏した。
  • 天子がどこからこの計を得たのかと問うと、任尚は懐令の虞詡から授かったと上表した。虞詡はこれによって名を知られ、将帥の器があるとして武都太守に遷った。

虞詡の武都赴任と赤亭の戦い

  • 羌の数千人が陳倉の殽谷で道を塞ぎ虞詡を撃とうとした。虞詡は上書して援兵を請い、兵が到着してから進発すると言い触らした。羌がこれを聞いて真に受けると、虞詡は昼夜兼行で道を進んだ。
  • 当時は冬で雪が多かったので、騾馬や驢馬を先頭に立てて人を後に従わせ、日に百五、六十里を進んだ。
  • 虞詡は吏士に一人あたり二つの竈を作らせ、日ごとにその数を増やさせた。ある者が、孫臏は竈を減らしたのに増やすのはなぜか、兵法では日に三十里進んで不虞に備えるというのに今日は二百里近く進むのはなぜか、と問うた。
  • 虞詡は答えた。虜は多く我は少なく、勢いが釣り合わない。ゆっくり進めば虜に追いつかれるから、道を兼ねて速く行くのだ。舌が歯を避けるようなものである。虜は我が竈が多いのを見て、大勢の兵が迎えに来ていると思い、追撃をためらう。孫臏は弱く見せ、自分は強く見せている。勢いがそもそも違うのだ、と。
  • 虞詡が郡に着いたとき、兵は三千に満たず、虜は一万余で赤亭を攻めた。虞詡は出撃し、「強弩を放て」と命じたが、実際にはまず小弩を放たせた。虜は弩の力が尽きて届かないと思い込み、みな警戒を解いた。そこで強弩を射させると、放つ矢はことごとく命中した。虜の前列が崩れたので、勝ちに乗じて追撃し、百余人を殺した。
  • 虞詡が掾吏に「どうだ」と問うと、皆「及びもつきません」と謝した。
  • 翌日、兵を東の郭門から出して北の郭門から入らせ、衣服を着替えさせて何度も繰り返した。虜はその数が分からなくなり、退却を謀った。
  • 虞詡は数百の兵を分けて要害に伏せさせ、虜が果たして引き揚げるところを迎撃して大破した。
  • こうして羌は畏れ伏し、武都はついに安定した。虞詡は地勢を見定めて営壁百八十か所を築き、流民三千余戸を呼び戻し、郡は富み栄えた。

冬十一月以降 地震と人事

  • 十一月庚申、十一の郡国で地震があった。
  • 十二月庚戌、司空の劉愷を司徒、光禄勲の袁敞を司空とした。