春正月 大赦と六州の飢饉
- 春正月癸酉、天下に大赦が行われた。
- 青・兗・豫・徐・冀・并の六州で民が飢えた。
三月 日蝕と賢良方正の推挙
- 三月癸酉、日蝕があった。
- 詔により、公卿はそれぞれ賢良方正で直言極諫できる者を一人ずつ推挙することとされた。
夏四月 鄧氏一門の大量封侯
- 太傅の張禹を安郷侯、太尉の徐防を龍節侯、司空の尹勤を傅亭侯とした。
- 車騎将軍の鄧隲を上蔡侯、城門校尉の鄧悝を葉侯、虎賁中郎将の鄧弘を西平侯、黄門郎の鄧闓を西華侯とし、いずれも食邑一万戸を与えた。
- 鄧隲には使者が節を奉じて自ら迎えに赴き、三千戸が加増された。鄧隲は使者を避けて宮闕に上疏し、固く辞退したので、ようやく許された。
五月 熒惑の逆行と人事
- 五月戊寅、熒惑(火星)が逆行して心宿にとどまった。本志はこれを、のちに周章が帝の廃立を謀ったことの前兆だと解している。
- 寿光侯の劉並を北海王に立てた。
- 甲戌、長楽衛尉の魯恭を司徒とした。
魯恭、軽微な罪の追及をやめるよう諫める
- このとき詔で軽微な罪も取り調べて立証させることが認められた。魯恭は上疏して諫めた。
- その趣旨は次のとおり。詔は万民を心配してのものだが、郡国は貧民を慰撫すると称してかえって民を煩わせている。一人を証人として取り調べれば、疑わしいだけの罪で善良な者数十人にまで及び、季節の気に逆らって農事を妨げる。
- 易の消息では四月は乾卦が働く月で、乾は美利をもって天下を利するとされ、時に六龍に乗って天を御すともいう。五月は姤卦が働き、君主は命を施して四方に告げるとされる。君主は夏至の日に四方の旅人の通行を止めて陰気を助けるのであって、まして人を召し捕って拷問し百姓を騒がせてよいはずがない。
- 月令に孟夏は軽い刑を裁断するとあるのは、罪の定まった者を長く拘禁しないという意味で、取り調べて罪を正すことを認めた条文ではない。軽い拘禁の者を出すのは、拘束を望まないことを示すためである。
- 月令は周代に作られたが、拠っているのは夏の時令である。王朝が変えるのは正朔・衣裳・犠牲・徽号・器械だけで、時令は変えてはならない。
- 易に「潜龍用いるなかれ」とあるのは十一月・十二月を指し、「その道に馴致して堅氷に至る」とあるのは五月に微かな陰が起こって十一月に堅氷が至ることをいう。十一月の中孚には「君子はもって獄を議し死を緩くす」とある。
- 疑わしい罪はすべて詳しく法を議し、死刑は冬の月が尽きる頃にようやく裁断すべきであり、立春が十二月中に入る年は、その時期に囚人の処断を上申させないようにすべきだ、と述べた。
- 詔はこれに従った。
諸事と災異、三公の交代
- 太后鄧氏の母に新野君の爵を与えた。
- 西羌が叛き、車騎将軍の鄧隲が軍を率いて討った。
- この時期、長雨が繰り返し降って災害が重なり、百姓は飢饉に苦しみ、盗賊が各地で蜂起した。そこで太尉の徐防と司空の尹勤が策免され、太傅の張禹は病と称して退いた。
- 丙戌、死罪以下および亡命者に、それぞれ段階を設けて贖罪を認めた。
- 庚寅、太傅の張禹を太尉、太常の周章を司空とした。
十月 倭国の遣使
周章の廃立計画と発覚
- そもそも今上の即位は大臣たちの意にかなうものではなかった。司空の周章は鄧隲兄弟を誅殺し、太后と天子を廃して平原王を帝に立てようと謀ったが、事が発覚した。
- 十一月丁亥、司空の周章は罪を得て自殺した。潁川太守の張敏が司空となった。
十二月 地震と西域放棄
- 十二月、十八の郡国で地震があった。
- 李固はこれを論じて、地は陰であって本来静かであるべきなのに、陰が分を越えて陽の政を専らにしたため震動として現れたのであり、太后が政を執っていることの応報だとした。
- 騎都尉の王仁が兵を率いて鄧悝を迎え、官吏を伴って塞内に引き揚げ、ついに西域の城を放棄した。都護の任尚は罪に問われた。