春 人事と和帝の埋葬
- 正月癸卯、光禄勲の梁鮪が司徒となった。
- 三月甲申、孝和皇帝を順陵に葬った。
馮貴人への恩賜
- このとき馮貴人が陵園に移ることになり、太后が詔を下した。朕と貴人はともに後宮に身を寄せて十余年になる。天は憐れまず、先帝は早くに世を去られ、寄る辺のない心はどこにも仰ぐところがない。貴人は旧例に従って陵園に分かれるべきだが、離れがたい情がかえって悲嘆を増す。『燕燕』の詩をもってしても言い尽くせない。よって貴人に青蓋の車と添え馬を各一、黄金四十斤、彩り布三千匹を賜る、と。
呪詛事件と太后の裁き
- 以前、和帝の宮人の吉成のもとで、御者が恨みを抱き、桐の人形を作って太后の姓名を書きつけ埋めた。事件は掖庭に下されて取り調べられ、担当者は皆これを吉成の仕業とした。
- 太后ひとりが考えた。吉成には自分が恩をもって遇してきた、身分は低くとも人として頼りにしてきた。先帝の在世中も悪い噂を聞いたことがなく、今はいつも以上に厚遇しているのに、なぜこんなことをする理由があろう、人情に合わない、と。そこで自ら呼び出して面接し、繰り返し実情を洗い直したところ、はたしてあの御者の仕業だった。
夏四月 鄧隲の抜擢と陳寵の死
- 虎賁中郎将の鄧隲が車騎将軍となった。以前、隲は同郡の袁良と身分のない頃からの交わりがあり、権勢の座に就くと良を招いて天下の事を語り合おうとしたが、良は辞退して交わりを絶った。
- 司空の陳寵が没した。寵は字を昭公といい、沛国洨の人である。
陳氏の家系と陳寵の事績
- 曾祖父の陳咸は成帝・哀帝の間に律令に通じて尚書となった。常に子を戒めて、人のために法を論ずるときは軽い方に依るべきで、百金の利があっても人を陥れてはならないと言った。
- 王莽が何武・鮑宣を誅すると、咸は嘆じて、易に「君子は兆しを見て動き、一日と待たない」とある、自分は去るべきだと言い、辞職を願い出た。莽が帝位を簒奪して咸を掌寇大夫に召したが、病と称して応じなかった。当時、咸の三人の子はみな官にあったが、すべて辞めさせ、父子ともに田舎へ帰り、家中の律令文書を集めて壁の中に隠した。
- 寵の父の陳躬もまた律令によって廷尉監となった。寵は若くして家伝の法学を修め、太尉の鮑昱の府に召された。
- 当時、三府の属官は実務に手を出さないのを高尚とし、もっぱら交際に励んでいた。寵は、君に仕える道は職務を果たして政治を助けることにある、ただ出入りして虚名を養うだけでどうするかと考え、ひとり職務に励み、しばしば鮑昱に当代の政治と教化について進言した。昱はその能力を高く買い、天下の裁判を担当させた。寵の裁定はことごとく人を納得させた。
- 寵は、律の訴訟が入り組んでいて悪質な官吏が言いがかりで重罪に持ち込めるのを憂え、条項と判例を整理して類型ごとにまとめ、不正の源を塞いだ。その後、三公の府はこれを規範として採用した。
- 寵は法律の家学を伝えるだけでなく経書にも通じ、上奏文は穏やかで含蓄があり、名宰相と称された。子の陳忠は字を伯傳といい、家業を継いで才能があり評判が高かった。
五月・六月 災異と倹約の詔
- 五月辛卯、天下に大赦した。壬辰、河東の恒山が崩れた。
- 六月丁未、太常の尹勤が司空となった。
- 詔にいわく、夏に入ってから長雨が度を過ぎている。過失を思って深く自らを責める。新たに大喪に遭い、そのうえ天候も和まない。食膳を減らし服装を落とし、それで少しでも益があればと願う。太官と上方の御用品のうち、華美で製作に手のかかる物を減らせ、と。
- 丁卯、詔して掖庭の宮人六百余人を解放し、みな庶人とした。
尚敏の上疏と学問振興の詔
- 尚敏が上疏して学校の振興を説いた。要旨は次のとおり。五経は学を修め人となるためのもので、経が修まらなければ世の道は衰える。学校が広まらなければ人の名声も行いも広がらない。だから秦は儒者を坑にして滅び、漢は学を尊んで興った。学問は天下を包み、陰陽の理を明らかにし、政治の道を織りなして民に規範を示すものである。
- 光武帝の中興で太学が修復され博士が置かれ、五経それぞれの義が講じられたので、教化の恵みが行き渡り天下は和平だった。ところが近ごろ五経はすっかり廃れ、後進の士は俗な交際に走り、老練な儒者や古い学問は業を伝える相手がない。俗吏ばかり増えて儒生は少ない。都にいながら経学に努めず、人間関係を競い賄賂を争っている。太学の中に議論の声は聞こえず、街路に講義する士の姿を見ない。五経六芸が次第に衰え、儒者の世界も学舎もこのまま失われるのを恐れる。
- 四夷を制御できるのは道徳仁義があるからである。伝に「王者の臣は実はその師である」とあるのは、その道徳が師と仰ぐに足るという意味だ。今、百官の履歴はみな経に通ずることを看板にしているが、それに値する者は一人もいない。孔子は「無いのに有るふりをし、空しいのに満ちたふりをするのは、恒常であることが難しい」と言った。今後、官吏の登用は経学の者を採り、公府の孝廉もみな詔に応ずるようにすれば、人心は一つになり風俗は淳厚になろう、と。
- そこで詔が下された。易に「天は象を垂れ、聖人はこれに則る」とあり、また「聖人の心は言辞に現れる」とある。とすれば文章を作るのは、神明の働きを助け明らかにし、万物を通じ伸ばすためである。秦は詩書を焼き、礼は毀れ楽は崩れた。大漢が興ってこれを拾い集めて広め、元康・五鳳の頃には英才が四方から集まり文章は輝き、六経の学はここに極盛となった。近ごろは学者が怠惰になり、ついに衰えてきた。公卿と中二千石の官に、隠棲する大儒で徳の高い節操ある者を推挙させ、後進を励ませ、と。
李充と鄧隲
- 陳留の李充は三度召されても応じなかったが、これを機に召されて博士となり、まもなく侍中に遷った。
- 車騎将軍の鄧隲は身を低くして李充を礼遇し、あるとき酒宴を設けて充と朝廷の大夫たちを招いた。酒がすすむと隲は、幸い外戚の縁で上将の位に就き幕府を開いたばかりだ、天下の英俊を招きたいが君はまだ聞いていないか、と言った。
- 充は、将軍が本当に俊才を招いて朝廷を輝かせるつもりなら難しいことではない、ただやらないのが心配なだけだ、と答え、天下の隠士について語ったが、隲の意には合わなかった。
- 隲が干し肉を勧めて、温かいうちに食べよと言うと、充は肉を受け取って地に投げ、士を語る楽しみは肉を食らうより甘いと言い、袖を払って退出した。
- 侍中の張孟が諫めて、面と向かって鄧将軍をやりこめ、庇うふりの言葉で責めたのは行き過ぎだ、子孫の幸福を招くやり方ではない、自分は足下のために賛成しかねると言った。充は、大丈夫がこの世に生きるのは志を行うことこそ尊い、自分の身さえ容れられぬのに、どうして後々のことを気にかけ子孫のために計れようかと答えた。
- こうして権勢家に容れられず、左中郎将に遷った。年八十三で、後に三老五更となり、天子から脇息と杖を賜り、国政について諮問を受けた。
秋七月 殤帝の崩御と安帝の擁立
- 辛亥、帝が崇徳殿で崩じた。
- これより先、清河王の劉慶の子の劉祐は、生まれたとき神々しい光と赤い蛇の瑞兆があった。十歳で史書に長け経伝を好み、和帝は大いに器量を認めて日ごとに賞賜し、恩寵は他の子らと異なっていた。和帝が崩じたとき殤帝はまだ乳飲み子だったので、太后は詔して祐を清河の邸に留め、跡継ぎの控えとした。
- 殤帝が崩じると群臣はみな平原王の劉勝に心を寄せた。太后は、以前に勝を立てなかったので後々の患いになるのを恐れ、車騎将軍の鄧隲、虎賁中郎将の鄧悝らと宮中で方針を定め、その夜、節を持たせた使者に青蓋の車で祐を清河の邸から迎えさせた。
- 癸丑、祐を長安侯に立てた。
- 太后の詔にいわく、先帝は聖徳がすぐれていながら早く世を去られた。朕は幼帝を養育して先の望みを託していたが、家に不幸が続き重ねて凶事に遭った。平原王はかねて持病があると思う。宗廟の重さを念い、皇統の継承を考える。長安侯の祐は生まれつき忠孝で慎み深く、年はすでに十三、堂々として大人の風格がある。礼には「兄弟の子はわが子と同じ」とある。よって祐を孝和皇帝の嗣とし、皇帝の位に即けさせる、と。
- 延平の初め以来、鄧隲兄弟は常に宮中に詰めていたが、ここに至って邸に退いた。
- 丙寅、孝殤皇帝を康陵に葬った。己亥、陳留に隕石が落ちた。
冬 西域の反乱と梁慬の奮戦
- 西域の諸国が反乱を起こし、都護の任尚が上書して救援を求めた。騎都尉の班雄と校尉の梁慬に五千人を率いて塞外に出撃させた。
- ちょうど任尚が疏勒から戻り、慬とともに亀茲を守った。温宿・姑墨の二国が数万の兵で慬を包囲すること一か月余り。慬はこれを撃ち破り数万を斬った。道が通じないため、慬はそのまま亀茲に留まった。
西域概説 地勢と両道
- 西域は武帝のときに初めて通じ、三十の大国があった。その風俗はおおむね城郭に定住して耕作と牧畜を営む。地は匈奴の西、烏孫の南にあり、北に大山、中央に河がある。東は漢に接し、玉門関・陽関で塞がれている。
- 西域に出る道は二つある。鄯善から南山沿いに北の河を渡って西行し莎車に至るのが南道で、南道は西へ葱嶺を越えれば大月氏・安息に出る。車師前王庭から北山沿いに河をたどって西行し疏勒に至るのが北道で、北道は西へ葱嶺を越えれば大宛・康居・奄蔡・焉耆に出る。
- 匈奴が強盛だった頃、諸国は常に匈奴に隷属していた。宣帝の神爵年間に漢は西域都護を置いた。王莽の時代、五威の軍をたびたび西域に出したため諸国は貧窮し、そのために叛いた。都護の李崇は南道を荒らして国々を攻め、疏勒を世善、姑墨を積善などと呼び変え、王侯をすげ替えたりもした。こうして西域と中国の交通はついに絶えた。
- 和帝の永元年間、西域都護の班超が属官の甘英を派遣し、英は大海を望んで引き返し、葱嶺以西の諸国の地形と風俗を詳しく報告した。班勇もその事を記しており、前代の史書と食い違うところもあるが、近ごろは事情が明らかになった。
西域概説 伊吾・車師・鄯善・焉耆
- 敦煌から西へ玉門関・陽関を出て鄯善を経て伊吾に通じるまで五千里。伊吾から車師前部の高昌壁に通じ、そこから北へ後部まで五百里。ここが匈奴と西域の門口である。
- 伊吾の地は五穀・桑麻・葡萄に適し、その北の柳中とともに肥沃な土地である。だからこそ匈奴と車師・伊吾の地を争い、西域を制した。
- 鄯善国は驩泥城を治所とし、洛陽から七千一百里。北は車師の前王・後王および車且彌・卑陸・蒲類・条支に通じ、これを車師六国という。北は匈奴と接する。前部は西へ焉耆と北道に通じ、後部は西へ烏孫に通じる。漢が西域を匈奴から切り離そうとすれば、必ず車師を得て伊吾に屯田する必要がある。
- 焉耆は河南城を治所とし、洛陽から八千二百里。東南は山離国と接する。ほかに危須・尉黎・亀茲・姑墨・温宿・疏勒・休修・大宛・康居・大月氏・安息・大秦・烏弋・罽賓・莎車・于闐・且彌の諸国が次々に連なって通じている。
西域概説 大月氏と天竺
- 大月氏の都城は洛陽から一万六千三百七十里。その東南数千里で天竺に通じる。天竺は身毒ともいい、風俗は月氏と同じ。大河に臨み、西は大秦に通じる。月氏から南は西海に至り、東は盤越国に至るまで、みな身毒の地である。別に数十の城があってそれぞれ王を置くが、総称して身毒という。
- その俗は仏の道を修め、殺伐を行わず、弱くて戦を畏れる。
- 本伝にいう。西域諸国の風俗として仏塔を造るのは、もともと仏道によるものである。だから大国でも人口は数万、小国は千ほどで、ついに互いに併呑しなかった。ところが漢に内属した後、漢の悪知恵の働く者、素行の悪い利益目当ての者がその中に入り込み、後漢の時代になると謀略が生まれ、次第に互いを吞み滅ぼすようになった。習俗というものは慎まねばならない、人を動かすのはこれだからである。
西域概説 安息と条支
- 西域で最も遠いのが安息国で、洛陽から二万五千里。北は康居、南は烏弋山離と接する。その領域は方数百里。西の条支へは馬で長途を要する。海に臨んで暑熱の地で、獅子・犀・こぶ牛、瓮ほどもある孔雀の卵を産する。西海に接している。
- 安息の西関から西へ阿蛮国まで三千四百里。阿蛮から西へ斯賓国、河を渡って西南に于羅国まで九百六十里。ここが安息の西の果てである。その南から船に乗れば大秦に通じるが、数か月から一年を要するという。
西域概説 大秦国
- 大秦国は黎軒ともいい、海の西にある。漢の使者はみな烏弋から引き返し、条支まで到れる者はいなかった。
- 甘英は懸度と烏弋山離を越えて条支に至り、大海を前にして渡ろうとした。土地の者が英に言うには、漢は広大だがこの海の水は塩辛くて飲めない、往来する者は順風に会えば三か月で渡れるが、風が悪ければ三年かかる、だから海に出る者はみな三年分の食糧を積む、海上では故郷を恋しがる気持ちが募り、それで命を落とす者も多い、と。英はこれを聞いて渡海を取りやめた。
- そこで英は現地の風土をよく尋ねた。大秦の地は方数千里、城は四百余。隷属する小国は数千。戸ごとに城郭を成し、別に宿駅を置いてみな白土を塗る。松や柏など諸木と草が生える。民は農耕に励み、植樹と養蚕を営む。
- 国の人は頭を剃り、刺繍の衣を着、屋根つきの車に乗って白い蓋を用い、出入りには太鼓を打ち旗指物を立てる。宮室を建てるには水晶を柱に用い、食器にも使う。
- 王の居城は周囲百余里。王には五つの宮があり、それぞれ十里離れている。早朝に一つの宮へ行って政務を聴き、そこに泊まり、翌朝また次の宮へ移り、五日で一巡してもとに戻る。常に一人に袋を持たせて王の車に随行させ、民が申し立てたいことがあれば書いて袋に入れる。王は宮に着くとそれを開いて是非を裁く。それぞれ担当の役所があり、さらに三十六人の宰相を置いて、全員が集まって議事する。
- 王は特定の家系の者ではなく、国内に災異や不順な風があれば追放して、代わりに賢者を求めて王とする。追放された者も恨むことはない。
- 金銀・真珠・珊瑚・琥珀・瑠璃・金糸の毛織・刺繍・彩りの綾・塗布が多く、また細布があり、水羊の毛や野蚕の繭で作るともいう。諸種の香を煎じて蘇合香を作る。およそ外国の珍品はみなここから出る。銀銭は十枚で金銭一枚に当たる。天竺・安息と海上で交易し、その利は十倍になる。民は正直で市には二重価格がなく、穀物は常に安く、国内は豊かである。隣国の使者が国境に着くと駅の車で王都へ送られ、到着すれば金銭が支給される。
- 安帝の元初年間、日南の塞外の檀国が幻術師を献じた。姿を変え火を吐き自ら手足をばらばらにしてみせ、また玉を投げ上げるのが巧みで十個を操った。その者は自分を海西の人だと言った。すなわち大秦である。交州の外の塞から檀国や諸蛮夷を経て通じている。また別に益州の塞外から大秦に通じる道もある。
- 大秦の人はみな背が高く体格がよく端正で、中国人に似ている。だから外国の大秦と呼び、彼らは自国を中国と称している。
- その王は常に漢へ使者を通わせ貢物を献じたいと思っていたが、安息が漢の絹織物を自分たちの交易品にしようとして遮り、通させなかった。桓帝の代になって王の安都が使者を遣わし象牙・犀角・玳瑁を献じ、初めて通交が実現した。
- その国の長老が伝えるところでは、大秦の西には弱水があり、日の沈む所に近いという。また安息から陸路で海を巡って北へ行き、西へ出て大海に至るともいう。人家が連なり、十里に一亭、三十里に一署があり、盗賊は全くいない。ただ猛虎や獅子が旅人を襲って食うので、百人余りが武器を携えていなければ害されて通れない。さらに隣国には海を渡る飛橋が数百里にわたるとか、珍奇な玉石が産するとか言うが、荒唐無稽で道理に合わないので記さない。西南の果てだという。
- 山離から条支へ戻り、東北の烏弋山離へは百余日の行程。烏弋山離・罽賓・莎車・于闐・寧彌の諸国が互いに接している。遠い国は洛陽から二万一千里、近い国でも一万余里である。
十二月 清河王慶の死
- 甲子、清河王の劉慶が没し、孝王と諡された。
- 慶は威儀を整えるのが巧みで、立ち居振る舞いは見るに値した。廃太子となってからは常に慎重に身を処し、宮中にいても話が外に及ぶことはなかった。
- 和帝が皇太子だった頃から慶と親しく、宮内では部屋を共にし外出には車を同じくした。即位すると政務の大小を慶と相談したが、慶はいよいよ畏れ慎み、朝から晩まで戦々恐々としていた。朝会のたびに礼装して伺候し、常に側近に、自分は一国の王であり車馬も器物も十分だと言った。内では議論に加わり外では側近に語りかけながら、名を立てることは一切避けた。そういう類の人であった。
- 母の宋貴人の墓には祠堂がなく、慶は野天で祭るたびに涙を流さないことがなかった。
- 和帝と殤帝が相次いで崩じると、慶は常に喪の仮屋に籠って哭き悲しみ、そのために病を発した。
- 病が重くなると、母方の伯父の宋衍に言った。清河は土地が低く湿っている。貴人の墓のかたわらに骨を埋めさせてもらいたい、棺を下ろすだけでよい。朝廷の大恩があれば屋根くらいは掛かるだろう。母子ともに祭りを受け、魂が野ざらしにならなければ、死んでも何の心残りもない、と。そこで上書して樊濯の中にある貴人の墓のそばに葬られることを願い出たが、許されなかった。
- 慶は臨終に嘆じた。死ぬことは惜しくない、ただ帝が貴人のために讐を報いるのを見られないのが心残りだ、と。泣いて自らを抑えられず、左右の者もみな涙を流した。
- 没すると司空に節を持たせて葬儀を監督させ、龍旗九旒と虎賁百人を賜り、儀礼は東海恭王に準じた。清河国を分けて慶の末子を広川王に封じた。