後漢紀巻第十四 孝和皇帝 元興元年 105年

春 鄧訓の追封をめぐる論争

  • 三月、皇后の父の鄧訓に爵と諡を追贈し、平寿敬侯とした。司空の陳寵は旧典にないとして反対し、太尉の張酺・張禹、司徒の徐防は封ずべきだとして連日争い、結局、禹と防の議に従った。これによって虎賁中郎将は陳寵を恨んだ。

夏 封侯と災異

  • 四月、鄧禹と馮魴の子孫を列侯に封じた。丙午、天下に大赦した。
  • 五月癸酉、扶風の雍で地震があった。

冬 和帝の崩御と殤帝の即位

  • 十二月辛未、帝が嘉徳殿で崩じた。
  • これより先、皇子が続けて夭折したため皇太子を民間で養育しており、群臣は誰も知らず、みな不安に駆られていた。鄧后は皇太子を民間から迎え取っていた。
  • 皇子の勝は年長だが病があり、皇子の隆は生後百日あまりで后が養っていた。太后は兄たちを引き入れて宮中で方針を定め、隆を皇太子に立て、その日のうちに皇帝の位に即けた。太后が朝政を代行した。
  • 天下の男子に爵位を差をつけて賜り、身寄りなく重病で生活できない者に粟三斛を与えた。皇子の勝を平原王に封じた。
  • 詔にいわく、昔、唐虞の盛世でも四輔を待ち、周の文王の安泰は多くの人材にあった。漢興以来の旧制でも保傅を置き、左右に人を並べて政務の裁断に参画させるべきである。太尉の張禹は三代にわたり位にあって老いてなお過ちがなく、司徒の徐防は力を尽くして身を捧げ先帝もこれを嘉した。禹を太傅、防を太尉とし、ともに尚書の事を参録させ、百官はその指揮のもとで政を執る、と。
  • かつて郡国が上申した符瑞は八十余品に上ったが、和帝は虚偽を恐れて抑え、公表しなかった。