春夏 凶作対策と客星
- 二月、兗・豫・徐・冀の民の穀物が実らなかったため、三たび府の掾を派遣して分担して巡回させ、民に土地を十分に活かすよう勧め、耕地のない貧者には雇用の道を設けた。
- 夏、客星が紫微宮に入った。
秋 張酺の司徒就任と死
- 七月辛酉、司徒の魯恭を策書で罷免した。甲午、光禄勲の張酺が司徒となった。
- 八月己酉、司徒の張酺が没した。酺は病が重くなると子に命じた。顕節陵では地を掃いて露天で祭る、天下を率いて倹約を示すためである。自分は三公でありながらこの制に従わせられなかった、まして自ら破ってよいはずがない。祠堂を建てるな、露天の祭だけにせよ、と。
- 帝は酺の死を聞いて哀しみ、喪服を着け、ただちに印綬と墓所を賜り、恩寵は格別だった。
- 酺は字を孟侯、汝南細陽の人。永平年間には儒術が尊ばれ、皇太子・諸王侯から臣下の子弟まで経書を学ばぬ者はなかった。また外戚の樊氏・郭氏・馬氏の子弟のために学校が置かれ「四姓小侯」と呼ばれ、五経の教師が任じられた。酺は経に明るいことでその任にあたり、広平の郎中に任じられた。朝会で進見するたび帝の前で講義し、その言辞は格調高く声は左右を圧した。
- 章帝が即位すると外郡に出され、酺は不本意で、側近に留めてほしいと上疏したが聴かれず、銭三十万を賜って急ぎ任地へ発たされた。
- 酺は儒者だが剛毅で決断があり、着任するや賢才を抜擢し豪族を挫き、ひと月ほどで郡中は引き締まった。酺が出た後、帝は諸王の師傅たちに、東郡太守の張酺は講義が終わるたびに率直に諫め、少しでも善いことがあれば褒め続け、忠言は真っ直ぐで史魚の風格があると語った。
- かつて賈逵が古学に通じ、曹裒が漢の礼制を定めた。酺は常にこれを批判し、太尉となってからその不可を上疏し、五度も奏上した。帝は酺が旧学に固執して融通が利かないと見て、その上奏を握りつぶした。
冬 三公の異動と魏霸
- 十月辛卯、司空の徐防が司徒に、大鴻臚の陳寵が司空となった。鉅鹿太守の魏霸を召して将作大匠とした。
- 霸は済陰の人。若くして父母を失い、兄弟と数十年同居した。妻子はたびたび苦労な仕事を引き受け、事あるごとに譲った。霸は兄嫁が働いているのに自分だけ楽をするのを心苦しく思い、常に粗末な布を着て菜食し、妻子には自ら耕作や養蚕に励むよう命じ、兄弟の子や甥と労苦を等しくした。
- 霸は寛容を旨とし、一人に完全を求めなかった。掾吏に過失があれば人目のないところで責めて改めさせ、改めなければ辞めさせるだけで、決してその悪事を言い触らさなかった。吏が互いを謗るときは、嘆息して、あの人は賢者だ、人の短所を言い立てるようなことはしないと言った。太守はこれを重んじ、当人は恥じ入って自ら退き、郡中は感化されてみな和睦した。後に太常となり、病で退官して光禄大夫となった。
- 霸の妻が死ぬと、長兄の伯が霸のために妻を娶り官舎まで送ってきた。霸は笑って、年老いて子も揃っているのに、なぜ他家の女を養おうかと言い、自ら出向いてその女に拝礼して言った。夫人はこの老人を見てどう思うか。むだに遠路来させたが、道理として承服できない、と。そして拝して退いた。女は恥じて帰ることを願い、霸は送り返した。
匈奴