春夏 賜爵と災異
- 三月、天下の男子に爵位を差をつけて賜り、身寄りなく生活できない者には粟三斛、博士の弟子には布三匹を与えた。
- 閏四月戊辰、南郡の秭帰で山崩れが起き、百人あまりが圧死した。
- 秋七月辛亥朔、日食があった。
張酺と晏称の対立、太尉罷免
- 以前、太尉の張酺が司隷校尉の晏称と朝堂で会った折、酺はくつろいだ調子で、三府の掾史には適任でない者が多いと言った。散会後、称は三府の長史にそれぞれ配下の掾史を査定させるよう奏上した。
- 酺はこれを恨み、再び顔を合わせた席で称を責めた。称の言葉つきも態度も従順でなかったため、酺は怒って朝廷の場で叱りつけた。称は、酺が朝廷を怨んでいると奏上した。
- 帝は酺が先帝の師であったことから決断をためらい、公卿に朝議を命じた。司徒の呂蓋は、酺は宮門での作法を知りながら息を潜めて身を屈めるどころか、色をなして大声を出した、四方に示せる態度ではないとした。そこで策書によって罷免された。
- 策文の趣旨。詩に「あの南山は険しく岩が重なる、赫赫たる師尹を民はみな仰ぎ見る」とある。今、君は在位八年になるが治世を讃える歌は聞こえず、宮門のもとで見苦しい騒ぎを起こし、山のごとき体面を傷つけ、和やかな気風を損なった。これでどうして四方に示し百官の手本となれようか。霜を踏めば氷の近いことがわかる。朕は深く憂える。太尉の印綬を返上せよ。自ら招いたことだ、後から言い分を言うな、と。
- 九月、張酺は罷免されて郷里の家に帰り、門人を帰らせ、門を閉ざして賓客を通さなかった。中郎将の敞らは、酺は公正無私であり長く野に捨て置くべきでないと繰り返し言い、帝も酺を重んじていたので、数年後にあらためて酺を光禄勲とした。
- 丙辰、大司農の張禹が太尉となった。
- 西域の蒙奇・兜勒の二国が内属した。