春夏 祥瑞と封建
- 春正月、日南から白雉が献上された。
- 夏四月己卯、東平王の子の劉尚を成都王に封じた。
- 六月辛酉、沛王の劉輔が薨去し、諡を献王とした。輔は経書を好み、謹厳で法度を守り、国にあって終始その行いが見るに堪えるものだったので賢王と称された。
秋 鄧彪の引退と朱暉の起用
- 秋八月甲子、太尉の鄧彪が老病により罷免され、大司農の鄭弘が太尉となった。
- 鄧彪は字を智伯といい、南陽新野の人。父は孝行で知られ、父の没後、彪は国を異母弟に譲った。明帝はその節義を高く評価して認め、府の掾に辟召し、次第に太僕卿まで昇進させた。継母の喪に際しては病と称して辞任を願い、光禄大夫の資格で服喪し、喪が明けると大司農に遷り、数か月で太尉となった。礼譲をもって下の者に接し、百官の規範とされた。
- 病により骸骨を乞うと、策書が下された。曾参・閔子騫のような行いと高い礼譲の徳をもつ君を慕い、その徳礼で民を導かせたかったが君の意に従うとして、太尉の印綬を返上させ、銭三十万を賜い、二千石の俸禄を終身与えるとした。また太常に命じて四時の宗廟の祭肉を届けさせ、河南尹には毎年八月一日に羊と酒を贈らせた。
- 癸酉、天下の獄囚の罪を一等減じ、死罪の者は辺境の守備に徙すこととした。
- 九月、帝は陵墓と旧宅・園廟に行幸して祭った。
朱暉
- 前の臨淮太守・朱暉が尚書僕射となった。暉は字を文秀といい、南陽の人。若くして節操で知られた。
- 母方の従伯父にあたる信陽侯の陰就が権勢の盛んな頃、暉の名声を慕って自ら訪ねてきたが、暉は避けて会わなかった。のちに家丞を遣わして礼物を届けさせても、門を閉ざして受け取らなかった。
- 郡吏だった頃、太守の阮況が私事で暉に頼んできたが従わなかった。況が死ぬと、暉は手厚く遺族に贈り物をした。周囲が不審がると暉は「以前は阮君に頼まれごとをされていた。財物で君を汚すことを恐れて何も言わなかったのだ。今こうして手厚く贈るのは、自分の心を明らかにするためだ」と語った。
- 驃騎将軍の劉蒼はこれを聞いて暉を辟召し、丁重に遇した。正月元旦、蒼が璧を捧げて賀に参列することになったが、旧例では少府が璧を支給する。ところが少府の陰就は驕り高ぶって法を守らず、璧が手に入らない。蒼は朝堂に座して時間切れ寸前まで待たされ、どうしてよいか分からず属吏に尋ねた。暉は少府の主簿が璧を持っているのを見つけ、「璧の話は聞くが実物を見たことがない。見せてくれ」と偽って近づき、主簿から璧を受け取ると令史を呼んで捧げさせた。主簿が驚いて「少府がそれで朝賀するのだ」と言うと、暉は「持って帰るなら私は朝賀に出ない」と一喝した。主簿が急ぎ陰就に報告すると、就は「朱掾は義士だ。もう求めるな。別の璧で朝賀する」と言った。朝が終わって蒼は暉に「今のそなたは藺相如と比べてどうか」と言った。
- 明帝が長安に行幸する際、宿衛を厳重にするため暉を衛士令とし、やがて臨淮太守に遷した。暉は節義を重んじ、任用するのは行いの厳しい士で、義のために怨みを報じて法を犯した者にはたいてい逃げ道を作って生かしてやり、不義の者はその場で処断して獄門を汚さなかった。そのため吏民は彼を畏れつつ慕った。
- 暉は官吏として剛直だったので上役に嫌われ、赴任先でしばしば弾劾された。臨淮を去ってからは野沢に隠棲し、布衣に粗食で村里とも交わらず、郷党からは片意地だとそしられた。
- 南陽で大飢饉が起きると、暉は家財をすべて出して一族と旧友に分け与え、自分の分は気にかけなかった。
- 以前、同県の張堪はかねて名声があり、暉を高く評価して友人として交わろうとしたが、暉は先輩に対して恐れ多いとして受けなかった。のち二人とも二千石になってからはまったく交際しなかった。南陽の飢饉のとき堪はすでに没しており、暉はその妻子の窮乏を聞くと自ら訪ねて援助した。子の朱頡が不思議がって尋ねると、暉は「私は心で信を交わしていたのだ」と答えた。その信義と最後まで変わらぬ態度はこの類であった。
冬 巡幸と禁錮の解除
- 冬十月、帝は江陵に行幸した。
- 十二月、禁錮によって仕官を許されなかった者たちの処分を解き、仕官できるようにした。