春正月・耿恭の救出
- 春正月、敦煌太守の王遵と酒泉太守の殷彭が兵五千を率いて車師を破った。
- 耿恭は吏の范羌を敦煌へ軍需の受け取りに遣わしており、范羌は大軍とともに西へ向かっていた。車師を破ると諸将は帰還しようとしたが、范羌は耿恭を迎えに行くことを願い出た。諸将は承知しなかったが、范羌が固く請うたので兵二千を分け、疏勒城に到った。
- 城中では夜に軍勢の音を聞いて敵が来たと思い、皆恐れた。范羌が、自分は范羌である、漢の兵が迎えに来た、と呼ばわると、耿恭らは万歳を唱えて城門を開いた。耿恭は范羌に会って悲喜こもごも涙を流し、抱き合った。
- 翌日、軍に従って共に敦煌へ帰還した。生き残った吏士は十三人であった。関寵は病死し、その柩を送り帰した。西域との通交はここに絶えた。
- 耿恭が到着すると、司徒の鮑昱は、耿恭の節操は蘇武に勝るから爵土の賞を受けるべきだと主張したが容れられず、耿恭は騎都尉に任じられた。
- 耿恭が帰る前に母が没していた。耿恭は自ら食事を供せなかったことを悔い、後から喪服を着た。詔で五官中郎将の馬厳が牛と酒を持って赴き、その服を解かせた。
班超の疏勒帰還
- 班超は疏勒城の王忠と互いに呼応していたが、率いる吏士はごく少なく、ただ恩義で人心をつなぎとめて数年、危うく亀茲に取られるところであった。西域が失われて班超は孤立し、詔で召還された。
- 班超が疏勒を発つと、都尉の黎弇は刀で自ら刺し、漢の士が我らを棄てて去れば白髪になるまで生き延びられず、また亀茲に屠られるだろう、漢の使者が去るのを見るに忍びない、と言った。
- 班超が于闐に着くと、王侯以下が涙を流して班超の馬にすがりつき、漢に頼るのは父母のようだ、去ってはならない、と訴えた。班超は于闐が東行を許さないと見て取り、また当初の志を成し遂げようと考え、于闐から疏勒へ引き返した。
- 班超が去った後、二つの城が亀茲に降っていた。班超は謀叛した者を捕らえて斬り、疏勒は再び安定した。
旱害と寛政の詔
- この頃、やや旱で穀物が高騰し民が飢えた。
- 丙寅の詔の趣旨は次のとおり。近年、飢饉と旱でしきりに民が流亡しており、朕はこれを甚だ懼れる。公卿・二千石はそれぞれ誠意を尽くし、もっぱら民の生活を急務とせよ。死罪以外はしばらく取り調べず、立秋になれば従来どおりとせよ。有司は選挙を明らかに慎重に行い、柔和で善良な者を進め貪欲で残酷な者を退け、時令に従い冤罪の獄を正せ。五教は寛にありというのは帝典の美とするところ、和やかな君子というのは大雅の讃えるところである。これを天下に布告し、朕の意を明らかに知らしめよ。
鮑昱の献策と流刑者の帰郷
- そのうち旱がひどくなり、天子は司徒の鮑昱に、どうすれば災いを取り除けるかと問うた。
- 鮑昱は答えた。聖人が国を治めても三年で成るという。陛下の即位から日は浅く、政治に得失があっても異変を招くには足りない。礼楽を修め徳教を尊べば風俗を改めるには十分である。
- 続けて、自分はかつて汝南太守として楚の事件を裁いたが、汝南一郡だけで拘禁された者が千余人おり、罪に相当しない者もいるだろう、先帝が大獄を定めたときは一度に冤を被った者が半ばを超えた、と述べた。
- さらに、移住させられた家々は肉親が離散し、祀られぬ魂があり、骸骨は流れ散って死者も生者も害を受けている、一人が嘆けば王道は損なわれる、移された家をすべて帰らせ、生きる者を喜ばせ死者を故郷に帰らせ、滅びたものを興し絶えたものを継げば、和やかな気を招くことができる、と説いた。
- 天子は従い、楚・淮陽の事件に連座して移された者を本郡に帰らせる詔を出した。
史論(袁宏曰)
- 物には性質があり事には類がある。陽は陽に、陰は陰に従い、天に本づくものは上に親しみ、地に本づくものは下に親しむ。天地も人も物も、それぞれの理に従って応じ合う。
- したがって一つの物を損なえば、その気の乱れが及ぶ範囲はいよいよ広がる。寒暑が調わず四季が順序を失うのはこのためである。
- 古の賢明な王は、政治教化が天の理に本づき、和を醸すことが物の類にかかっていることを知っていた。だから徳と礼で導き刑戮で威し、賞は必ず功に当て、罰は必ず罪ある者に加えた。そうして天地と生きとし生けるものが穏やかに通じ合った。一本の木を斬り一つの命を傷つけるにも、理に適わなければ治道が尽くされていないとした。まして万民の命はなおさらである。
- 招く原因があるからこそ病むのも深く、教化に由来があるからこそ祓うにも方法がある。真夏の余りの過酷さが水旱の災いとなるのであり、堯や湯はしばらく撫することで民の患いを免れさせた。
- こう見ると、三代以下は刑罰が中庸を失い、無実で枉げられて死ぬ者が半ばに近い。それでいて陰陽が調和し水旱が時を得ることを望んでも、得られるはずがない。
- もし寛やかに民に臨み、簡素に人を使い、罰が濫になることを懼れれば、万物ことごとくが調い昔と同じになるとまではいかずとも、甚だしい災いを免れるのは間違いない。
春から夏の処分・災異・封爵
- 三月丙午、隱強侯の陰博が驕慢に流れた罪で、膠東侯の賈敏が不孝の罪で、いずれも免ぜられて庶人となった。
- 甲寅、山陽・東平で地震があった。三公と二千石に、賢良方正で直言極諫できる士を各一人挙げさせる詔を出した。
- 夏四月丙戌の詔の趣旨は次のとおり。徳を褒め功に報い、絶えた家を興し継がせるのは、孝を明らかにし親に仕え善人を顕彰するためである。仁は徳を見捨てず義は労苦を忘れないのが先王の定めである。もと特進の膠東侯は河北で創業を助け元勲に列し、衛尉の陰興は忠貞で国を愛し先帝も善しとした。今、興の子の輔、膠東侯の孫の敏は愚かで道を失い、自ら刑に陥って爵土を失った。朕はこれを憐れむ。よって膠東侯の子の邯を膠東侯、興の子の員を隱強侯に封ずる。
- 秋七月辛亥、上林の二つの御田を、鰥寡や貧窮で自活できない者に賜う詔を出した。
冬十一月・阜陵王延の謀反
- 冬十一月、阜陵王の延が子の魴らと謀反した。
- 延は奢侈驕慢で下の者に厳酷であった。永平年間にも延の謀反を告発する上書があり、供述に連座して死罪・流罪となった者が非常に多かった。有司は延の誅殺を奏したが、明帝は近親であるため忍びず阜陵王に移した。延はこれを侵害されたとして怨みを抱いた。
- ここに至って再び延が子の魴らと謀反したという告発があり、有司は檻車で延を廷尉に護送しようとした。帝は聴かず、詔で延を阜陵侯に落とし、魴らの罪は赦して一切問わなかった。ただし延の国には謁者一人を置いて監視させ、吏民と交わらせないようにした。
江革の孝行と顕彰
- 司空長史の江革が五官郎将となった。朝会のたびに天子は自ら礼を尽くし、病で出仕できないときは太官に食事と酒を届けさせた。その恩寵は比類なかった。
- 京師の貴戚である衛尉の馬廖、侍中の竇憲らはその行いを慕ってそれぞれ書を送り礼物を届けたが、江革は畏れ慎んで一切受け取らなかった。天子はいよいよ善しとした。
- 江革は字を次伯といい、斉国臨淄の人である。家では孝養に専心し、体裁を繕う行いをせず、ひたすら親の意に適うことだけを心がけた。自ら母のために炊事し妻子には任せなかった。毎年の戸口調査の時期には、母が老いて煩わせたくないと、自ら轅に入って車を挽き、牛馬を用いなかった。郷里は「江巨孝」と称えた。
- 太守が礼をもって招いたが、母が老いているとして応じなかった。母が没すると哭泣の声が絶えず、常に墓のかたわらの廬に寝て、服喪が終わっても喪服を脱ぐに忍びなかった。太守が掾を遣わして服を脱がせ、強く請うて属吏とした。
- 孝廉に挙げられて郎となり、楚の太僕に補されたが、一月余りで自ら弾劾して去った。楚王英が官属を走らせて追わせたが帰ろうとせず、中傅に贈り物をさせても辞退して受けなかった。
- 中郎将となってからも上書して引退を願い、諫議大夫に転じて帰郷を許され、子の奐を宮門に遣わして謝させ、病が重くなった。
- 天子は江革の篤実な行いを思い、斉の相に詔した。その趣旨は、諫議大夫の江革は先に病で帰ったが今の暮らしはどうか、孝は百行の本で衆善の始めであり、国家が忠孝の士を思うたびに江革に及ばぬことはない、県から現有の穀千斛を巨孝に賜え、毎年八月には長吏が見舞い羊一頭と酒二斛を届けよ、終身その卓越した行いを顕彰し、万一のことがあれば中牢の礼で祀れ、というものであった。
- これによって「巨孝」の名が天下に広まった。
毛義と薛苞
- 廬江の毛義は孝行で称された。南陽の張奉がその名を慕って訪ねたところ、席が定まると府から檄が届き、毛義を守令とするものだった。毛義が大いに喜んで顔色に出したので、志を尚ぶ張奉は内心軽んじ、来たことを悔いて固辞して去った。
- のちに毛義は母が死ぬと官を棄てて服喪し、進退は必ず礼に従った。賢良として公車で召されたがいずれも応じなかった。張奉は嘆じ、賢者の心は測りがたい、あの日の喜びは親のためだったのだ、家が貧しく親が老いていれば官を選ばずに仕えるというのはこのことだ、と言った。
- 天子はこれを聞いて嘉し、穀千斛を賜い、八月には長吏に暮らしを問わせ、羊と酒を加えて賜った。
- 汝南の薛苞は字を孟嘗といい、母を喪って至孝で知られた。継母が薛苞を憎んで別居させたが、薛苞は日夜泣いて去ろうとせず、殴られてやむなく門外に廬を結んだ。朝夕に掃除して仕えると父が怒ったので、今度は村の入口に廬を結び、朝夕の勤めを欠かさなかった。数年して父母は恥じて呼び戻した。
- のちに六年の喪に服し、その哀しみようは度を越えていた。弟の子が分家を求め、薛苞は止められず財産を折半した。奴婢は年老いた者を取り、自分と長く働いた者でお前には使えまいと言い、田や家は荒れたほうを取り、若い頃自分が手を入れた土地で愛着があると言い、器物は朽ちたものを取り、長年使って身に馴染んでいると言った。
- 召されて侍中を拝したが、薛苞は恬淡な性で死をもって辞退を願い出、詔で許され、礼遇は毛義と同様であった。
史論(華嶠曰)
- 孔子は、孝は父を尊ぶより大きなものはなく、父を尊ぶことは天に配するより大きなものはない、と称した。それに当たるのは周公である。
- 子路が、悲しいことに貧しくては生きて養う手段も死んで葬る手段もない、と言うと、孔子は、豆を啜り水を飲むのもまた孝である、と答えた。鐘鼓は音楽の本体ではないが器を除くことはできず、三牲は孝養の本体ではないが養いを廃することはできない。器にこだわって本を忘れるのは音楽の行き過ぎであり、供物を尊んで行いを損なうのは養いの弊害である。
- 道によって養うと定めれば、周公の礼は四海の祭を致した。義によって養うと定めれば、仲由の粥にも驕慢の性はない。
- 粗末な豆や粥を嫌って禄を求めて養うのは、禄で親を養うことになる。ひたすら孝を尽くし、孝が成った結果として禄が厚くなるのが、義によって養える者である。
- 孔子は、孝であるな閔子騫は、人がその父母兄弟の言葉に異を挟まない、と称えた。その孝がすべて道に適っていて、もはや口を挟む余地がないという意味である。
- 先代の石氏父子は孝子と称され、慶は斉の相となり、人はその言葉を慕って治めた。これこそ孝というものであろう。孝にして兄弟に友愛があり、それを政に及ぼす、これもまた政をなすことである。
- この二人のような者は、至誠を推し進めて行いとし、その行いは心において偽りなく人を感動させて、名を成し禄を受けた。よく孝養したと言ってよい。