後漢紀巻第十 孝明皇帝 永平十八年 75年

春・北匈奴の反攻と金蒲城の守り

  • 春二月、竇固らに兵を収めて京師に帰るよう詔した。
  • 三月、北匈奴の左鹿蠡王が二万騎を率い、焉耆・亀茲を従えて来襲した。車師王の安得が死んだ。焉耆・亀茲は都護の陳穆と副校尉の郭恂を殺し、さらに金蒲城を攻めた。
  • 耿恭は軍士に弓を引き絞らせたまま発たせず、匈奴に、漢の神箭は当たった傷が沸き立つ、と告げた。そのうえで弩を放つと弦の音のままに敵は倒れ、矢に当たった者の傷が沸いたので、匈奴は大いに驚き、漢の神は恐ろしいと言って皆退散した。

疏勒城の籠城と湧泉

  • 耿恭は疏勒のかたわらに水があり、王忠の拠る所にも近いので、兵を移してそこに拠った。匈奴が後から攻めてくると、耿恭は先陣に立つ士四十人を募って城を出て突撃させ、数十級を斬った。
  • 匈奴は相談し、以前に疏勒王がこの城を守ったときも攻め落とせなかった、谷川の水を断てば降るだろう、として水を断った。吏士は飲む物がなく、窮して馬糞の汁を搾って飲んだ。
  • 耿恭は城中に十五丈の井戸を掘ったが水が出ず、吏士は顔色を失った。耿恭は、昔、蘇武は北海で苦しみながらも節を貫いた、まして自分は兵を擁して漢の道にも近いのに加護がないはずがない、貳師将軍が佩刀で山を刺すと泉が湧いたと聞く、今、漢の神明にどうして窮する道理があろうか、と嘆じた。
  • そして衣服を整えて井戸に向かって再拝し、吏士のために水を祈り、自ら士を率いて釣瓶を引いた。まもなく泉が湧き出て大量の水を得、吏士は驚き喜んで万歳を唱えた。その水を敵に見せると、虜の兵は大いに驚いて去った。

春夏の恩赦・恩賜

  • 丁亥、天下の亡命者に差を設けて贖罪を認めた。
  • 夏四月、天下の男子に爵三級、鰥寡孤独で自活できない者に粟三斛を賜った。

秋八月・明帝の崩御と章帝の即位

  • 秋八月壬子、帝が東宮で崩じた。遺詔で、寝廟を建てず、神主は世祖廟の更衣台に納めるようにと命じた。
  • 同日、皇太子が皇帝に即位した。年十八であった。
  • 壬戌、孝明皇帝を顕節陵に葬った。

冬十月・大赦と人事

  • 冬十月乙未、天下に大赦した。男子に爵二級、家を継ぐ者および三老・孝悌・力田に三級、鰥寡孤独で貧しく自活できない者に粟三斛を賜った。
  • 衛尉の趙憙を太傅、司空の牟融を太尉・録尚書事とした。
  • 戊戌、蜀郡太守の第五倫を司空とした。

第五倫の出自と乱世の行い

  • 第五倫は字を伯魚といい、京兆長陵の人である。先祖は斉の田氏の一族で、園陵を充たすために移住させられ、同族が多かったので順番を氏としたのが姓の由来である。第五倫は黄老を好み、孝行で知られた。
  • 王莽の末年、天下に兵が起こると、一族や郷里の者は倫が勇にして義があると聞いて争って身を寄せた。倫は皆を率い励まして砦を堅くし、銅馬・赤眉ら数十の集団もこれを落とせなかった。
  • 当時は米一石が一万銭、人が互いに食い合うほどであったが、倫だけは孤児や外孫を引き取って養い、糧を分け合い、生死を共にした。郷里はこれを賢とした。

第五倫の不遇と流浪

  • 太守の鮮于褒が倫を見て非凡と認め、属吏に取り立てた。のち褒が事件に連座して召還される際、倫の腕を取って、知り合うのが遅かったのが心残りだ、と言った。
  • 蓋延が京兆尹となり法を犯すことが多かったので、倫はしばしば諫めたが容れられず、下級の曹吏に沈んだ。
  • ほどなく鮮于褒が高唐令に左遷されると、倫は職を辞し、荷物を担いで訪ねて行った。褒は倫を堂に上げて妻子を託した。倫は県に戻って嗇夫となった。
  • 倫は長く官にいながら世に出ないので、家族を連れて河東に身を寄せ、姓名を変えて王伯春と名乗り、塩を積んで太原・上党を行き来した。泊まった宿はいつも掃除してから去るので、道中で「道士」と呼ばれた。
  • しばらくして鮮于褒が謁者となり、車駕に従って長安に至った。当時、閻興が京兆尹であり、褒が倫を推挙したので、興が招いて倫は再び郡の吏となった。
  • 倫は詔書を読むたびに、みな聖主だ、どうすれば一度お目にかかれるだろうかと嘆いた。同僚は笑い、郡の長官さえ説き伏せられないのに万乗の君を動かせるものか、と言った。倫は、知己に出会わず道が合わないだけだ、と答えた。

世祖との問答

  • 孝廉に挙げられて郎中となり、淮南王の医工長に補された。王に従って京師に朝したとき、官属が謁見を許され、世祖が政事を問うたので、倫は治世の道について詳しく述べた。世祖は大いに喜び、翌日また召して夕方まで語った。
  • 世祖が、卿は吏として妻の父を打ち、従兄の家の食事にも寄りつかないと聞くが本当か、と問うと、倫は、自分は三度妻を娶ったがいずれも父がなく、飢饉で米一石が一万銭のときにみだりに人の食事に与ることをしなかっただけだ、と答えた。
  • 世祖がさらに、市の掾であった頃、卿の母に餅を一つ贈った者があり、外から帰った卿がそれを見て母から奪い、口の中の餅まで探り出したというが本当か、と問うと、倫は、そのような事は全くない、人々が自分を愚かで頑ななものと思うのでそういう話が生まれたのだ、と答えた。

会稽太守としての淫祀禁絶

  • 詔で倫は扶夷長に任じられ、苑に至って会稽太守に移った。政治は簡素で民を煩わさず、教化が行き渡った。性質は倹約で、二千石の身でありながら常に布の短衣を着、自ら馬草を刈り、妻子は自分で炊事した。
  • 会稽の風習は淫祀を信じ、皆が牛や羊を供えて祈ったので、財産は鬼神に、家産は祭祀に費やされた。貧しくて時々の祈りができない家では、牛と口にするのを憚り、その肉を食べる勇気もなく、病んで死にそうになるとまず牛の鳴き声を出すほど恐れていた。
  • 倫はこれを禁じた。掾吏は皆やめるよう諫めたが、倫は、功を立てるのは政治にあり、政治は経義に拠るべきだ、経に「淫祀に福なし、その祭るべき鬼でないものを祭るのは諂いだ」とある、祭られる鬼神に知があれば民間でみだりに飲食すまいし、知がなければどうして人に禍いしよう、と述べた。
  • そこで属県に文書を回して民に諭し、門外に出ての祀りを禁じ、違反は取り調べて論じ、牛を屠る者があればただちに罰した。民は初め恐れて動揺し不安がったが、倫の督励がいよいよ厳しく、ついに淫祀は絶えて人々は生業に安んじた。

会稽を去るときと蜀郡での治績

  • 永平年間、倫は事件に連座して召還された。老若の民が役所の門を埋め、車にすがって泣き叫び、朝出発して昼までに五里しか進めなかった。倫は宿舎に留まり、ひそかに舟で去った。吏民で上書して宮門に詰めかけた者は千余人にのぼった。
  • この頃、天子は梁松の事件を審理中で、冤を訴える者が多く手を焼いていた。詔で、公車は梁氏および会稽太守のための上書は一切受けるなと命じた。倫は免ぜられて郷里に帰り、自ら耕して暮らした。
  • のち在野から起用されて宕渠令を守り、蜀郡太守に移った。蜀の地は肥沃で富裕な民が多く、掾吏や官属は皆立派な車と肥えた馬を用いていた。倫はこれを改めようとして、貧しくとも志のある者を挙用し、その多くが九卿・郡守に至ったので、人を見る目があると称された。
  • 天子が即位したばかりで、倫は遠方の郡から入って三公の一に列した。清廉で有能な者を挙げた人事であった。

耿恭の孤立と救援の議

  • 耿恭が包囲されたとき、明帝は激怒して兵を派遣して救おうとしたが、軍が出ないうちに崩御した。匈奴は中国に喪があると聞いて再び包囲した。糧が尽き、弩の筋を煮て食った。耿恭は士卒と苦楽を共にし、恩義で励ましたので、皆二心を抱かなかった。
  • 匈奴が使者を送り、城中でむなしく餓死するくらいならなぜ早く降らないのか、降れば白屋侯に封じ子女を妻に与えよう、と言うと、耿恭は自ら剣でその使者を斬った。数か月にらみ合ううちに兵は消耗し尽くした。
  • 戊己校尉の関寵が上書して救援を求め、事は公卿に下された。司空の第五倫は救援不可としたが、鮑昱は反対し、人を死地に遣わしておいて危急のときに見捨てれば、外は夷狄に弱さを示し、内は死を賭す臣の心を傷つける、この際に救わなければ後に辺境に急があったとき陛下はどうやって人を使うのか、と論じた。
  • さらに鮑昱は、戊己校尉の手勢はわずか十数人で、匈奴が数十日囲んでも落とせないのはその弱さの証拠だ、兵法では名を先にし実を後にする、敦煌・酒泉の太守にそれぞれ精騎を率いさせて旗指物を多く掲げ、行程を倍にして急行させれば、疲れきった匈奴の兵は必ず退く、と述べた。
  • 征西将軍の耿秉が酒泉に駐屯し、敦煌・酒泉の兵を発して車師を撃った。

日蝕と災異への詔

  • 甲辰の晦、日蝕があった。天子は正殿を避けて政務を執らず、詔した。
  • その趣旨は、幼い身で祖宗の業を承けながら大業を継ぎ修めることができず災異を招いた、その咎は自分一人にある、群司百僚は職務に励み、それぞれ憚りなく封事を述べよ、というものであった。

是歳・水旱の被害

  • この年、兖州・豫州・徐州の民が水害と旱害を被った。田租を徴収せず、現有の穀物で貧民に賑給させた。