後漢紀巻第十 孝明皇帝 永平十三年 70年

春二月・藉田の耕作

  • 春二月、天子が藉田を耕し、見物人に食を賜った。ある書生が頭をおおって、太公望が文王に出会ったようだ、と言った。天子は使いをやって、そなたは太公ではなく、私も文王ではない、と返した。

夏から冬にかけての行幸と日蝕

  • 夏四月辛巳、滎陽に行幸して河渠を巡視し、水門を築かせた。さらに太行に至り、上党に行幸した。
  • 冬十月甲辰の晦、日蝕があった。有司には遠慮なく便宜を述べさせ、刺史・太守には冤罪の獄を丁寧に処理し鰥寡を憐れみ、職務に励むよう詔した。

十二月・楚王英の謀反と系譜

  • 十二月、楚王英の謀反が発覚した。
  • 郭后は東海恭王彊・沛獻王輔・濟南王安・阜陵質王延・中山簡王焉を生み、陰后は明帝・東平獻王蒼・臨淮王衡・廣陵思王荊・琅邪孝王京を生んだ。許姫が楚王英を生み、楚太后と称された。
  • 許姫は世祖の寵を受けず、英は最も年少であったが、天子が皇太子であった頃から英だけがよく親しみ寄り添ったので、天子はとくに愛して賞賜を重ねていた。
  • 英は遊侠を好んで賓客と交わり、晩年は黄老を好み、浮屠の祠を営んだ。

贖罪の申し出と告発

  • 永平八年、天子が辟雍に臨み、礼を終えて天下の死罪を縑で贖えると詔したとき、英は郎中令を彭城に遣わし、藩屏の身でありながら天下に率先できず過ちが積もっている、大恩を聞いたので黄縑二十五匹と白紈五匹を献じて罪を贖いたい、と申し出た。楚の相が奏聞すると、詔は、楚王は黄老の微妙な言葉を誦し浮屠の慈悲の祠を尊び、三月の潔斎をして神と誓いを立てている、何をはばかって罪を贖う必要があろうか、として贖物を返した。
  • その後、男子の燕広が、英が顔忠・王平らと図讖の書を作って謀反を企てていると告発した。有司は英を大逆不道として誅殺を請うたが、天子は近親であるため忍びず、丹陽の涇県に移し、湯沐邑五百戸を与えた。英の男子で公・侯・王である者の食邑は元のままとした。
  • 楚太后は楚の宮にとどめ、英に従う侍女・才人・鼓吹の人数は制限せず、皆が幌車に乗り武器や弩を帯びて道中で狩りをし、思うまま楽しんだ。大鴻臚に節を持たせて英を丹陽まで護送させた。

浮屠の教えについて

  • 浮屠とは仏のことで、西域の天竺に仏の道がある。仏とは漢語で「覚」の意味で、衆生を悟らせる者をいう。
  • その教えは善行と慈悲の心を主とし、殺生をせず、ひたすら清浄を務める。中でも精進する者を沙門といい、漢語で「息心」、すなわち意を静め欲を去って無為に帰することをいう。
  • また人が死んでも精神は滅びず、あらためて形を受けるとし、生前の善悪にはすべて報いがあるとする。それゆえ善を行い道を修めて精神を錬り、絶えず続けて無為に至り仏となることを尊ぶ。
  • 仏の身は一丈六尺、黄金色で首のあたりに日月の光をおび、変化は自在で入り込めない所がなく、万物を教化し衆生を広く救うとされる。

金人の夢と仏典の評

  • 以前、天子は背丈が大きく首に日月の光をおびた金人を夢に見た。群臣に問うと、西方に仏という神があり、その姿は長大だと答える者があった。そこでその教えを問わせ、中国でその像を描かせた。
  • 仏典は数千万あり虚無を宗旨とし、精粗を包み込んで統べないものがなく、広大な言辞を得意とする。求める対象は身一つの内にありながら、明らかにする事柄は見聞の外にある。世俗の人は荒唐無稽とするが、その帰着するところは奥深く、容易には測りがたい。それゆえ王公大人も生死と報応の理を目の当たりにすると、はっと我を失わない者はない。

是歳・耿秉の対匈奴献策

  • この年、匈奴がしきりに辺塞を侵した。中郎の耿秉が上書し、国内は疲弊し辺境は安んじないが、その患いはもっぱら匈奴にある、戦をもって戦を去るのはよい、ただし君主は怒りにまかせて兵を起こすべきでなく、将は憤りにまかせて戦を交えるべきでなく、仁義を励みとするのが国の宝だ、と説いた。
  • 天子はかねて匈奴を討つ志があったので、ひそかに耿秉の言を容れ、召し入れて詳しく述べさせた。その言を善しとして将帥に任じうる人物と考え、謁者僕射を授けた。以後、公卿が辺境の事を論ずるたびに耿秉を議に加えた。

耿秉の西域先制論

  • しばらくして、太僕の祭肜、虎賁中郎将の馬廖、顕親侯の竇固、下博侯の劉張、好畤侯の耿忠らが共に軍事を議した。
  • 耿秉の主張はこうである。武帝の時に匈奴と事を構えたが、匈奴は弓を引く諸族や左衽の民を味方に引き入れていたため制圧できなかった。漢が河西四郡と居延・朔方を得て民を移したものの基盤が固まらず、匈奴はなお侵入した。その後、羌と胡が離れて四郡は固まり、居延・朔方も揺るがせなくなり、匈奴は肥沃な牧養の地を失って西域だけが残った。やがて西域も内属し、呼韓邪単于は塞に帰服を請うた。だからその勢いに乗じやすかったのである。
  • 今は南単于がいて当時と形勢は似ているが、西域はまだ内属せず、北虜にも隙が生じていない。まず白山を撃って伊吾を取り、車師を破って烏孫ら諸国と通じ、匈奴の右腕を断つべきで、先に匈奴本体を撃つべきではない。伊吾にも匈奴の南呼衍の一部があり、これを破ればさらにその左角を折ることになる。
  • かつて漢兵が出ると匈奴は乱れ五単于が争って来降したが、それは五将を出したからではない。今はまず白山を撃って情勢の変化を見るべきで、匈奴を撃つのはそれからでも遅くない。
  • 天子はこの意見を善しとした。議者の中には、白山に出兵すれば匈奴は必ず兵を合わせて援けるから、その東方を分けて敵を離すべきだとする者もあり、耿秉の計とは異なったが、天子はあらためてこちらももっともだとした。