春二月・廣陵王荊の自殺
- 春二月、廣陵王荊が罪を得て自殺した。荊は天子の同母弟で、性格は激しく苛酷、法令の細目を好んだ。
- 初め山陽王に封じられた。世祖の崩後、荊は東海王強に書を送って挙兵をそそのかしたが、強は恐れてその書を封じて奉呈した。天子は事を秘して荊を廣陵王に移した。
- 荊は人相見に、自分は先帝に似ている、先帝は三十で天下を得たが自分も今三十だ、挙兵できるかと問うた。人相見が役人に告発し、荊は自ら獄につながれた。天子は取り調べに忍びず、詔して、荊は数年のうちに大罪を二度犯した、その罪は赦すが吏民を臣とすることは許さない、とした。
樊儵の弾劾と荊の最期
- 荊は改めず、巫祝に天子を呪詛させた。天子は長水校尉の樊儵と任隗にこの獄を合同で審理させ、二人は荊の大悪は誅に当たると奏した。
- 天子が、卿らは私の弟だからこそ誅を請えるのだ、私の子であれば言えまい、と怒ると、樊儵は、天下は高皇帝の天下であって陛下一人の天下ではない、春秋の義では君や親に対して謀を抱いた時点で誅する、周公は弟を誅し季友は兄を鴆殺した、臣らは荊が同母弟で陛下が心を留めておられるからこそ改めて伺いを立てたのだ、陛下の子であれば臣らは独断で誅していた、と答えた。
- 荊は自殺した。天子は憐れんで思王と諡し、子の元壽を廣陵侯として荊の旧国を食ませたが、吏民を臣とすることは認めなかった。
樊儵の人物と死
- 樊儵は字を長魚といい、樊宏の子である。建武年間、諸王が競って賓客を招き、物好きな者は皆その間を行き来したが、儵は学問に専心して一切応じなかった。のちに諸王の賓客が捕らえられた際、儵はその中にいなかった。世祖はこれによって儵を重んじた。
- 永平の初め、公卿とともに郊祀の礼儀と五経の異義を定めた。朝廷にあっては身を正し、多くの諫言をなし、天子も敬重した。
- 儵の弟の鮪が、子の賞のために楚王英の娘敬郷公主を娶ろうとした。儵は止めて、建武の頃わが一族は栄寵を受けて一門から五侯を出し、特進の一言で男子は公主を娶り女子は王に嫁げるほどだったが、臣下たる者は外への心を持つべきでなく藩国と婚姻すべきでない、盛んに過ぎるのは一族の禍いだからこそ避けてきたのだ、お前には子が一人しかいないのになぜ楚に棄てるのか、と諭した。鮪は従わず楚と縁組した。
- この頃、儵が没して哀侯と諡された。病中も忠を忘れず、民に不便な政治を残らず箇条書きにしたが、奏上しないうちに亡くなった。天子は小黄門の張音を遣わして遺言を尋ねさせ、音がこれを奏すると涙を流した。儵の二子、郴と梵は言行を慎み、郎となって二十余年、一度も弾劾を受けなかった。
承宮と匈奴の使者
- 以前、儵は郎の承宮と親しく、朝廷に推薦した。承宮は博士を拝し、左右中郎将に昇った。忠言を容れ正道を守り、へつらって取り入ることをしなかったので、朝臣はその節操を憚った。
- その名声は匈奴にまで聞こえ、単于は使者を遣わして貢を献じ、承宮に会いたいと求めた。詔で身なりを整えるよう命じられると、承宮は、夷狄は名声に眩んで実を知らないだけで、臣の虚名を聞いて会いたがっているが、臣は醜く貧相なので見れば必ず侮る、体格が大きく威容のある者を選んで見せるほうがよい、と答えた。そこで大鴻臚の魏応を引き合わせた。
夏の大赦と南陽行幸
- 夏四月戊子、天下に大赦した。
- 閏月甲午、南陽に行幸して章陵を祠り、旧宅で祭祀を行った。雅楽を奏し鹿鳴の曲を演じ、天子自ら塤と箎を吹いて来賓をもてなした。