藉田と狩猟をめぐる劉蒼の諫言
- 春二月辛亥、皇帝は自ら藉田を耕した。河内で狩猟をしようとしたところ、驃騎将軍の東平王劉蒼が諫めた。
- 春の盛りは農事の始まる時で、この時期の政令では民を集めて工事を起こさない。伝に「田猟に泊まり込み、飲食に節度を欠き、出入りに節がなければ木は真っすぐに育たない」とあるのは、春の政令を失うためである。
- 車駕がきわめて質素で、通過する土地の官吏や民が甘棠の徳を讃えていることは承知している。とはいえ礼によらずに動かれるのは、四方に示す規準にならない。
- 行かれるついでに田野を巡って農作を見、河川を眺め、ゆるやかに留まって周囲をご覧になり、秋冬になってから威光を振るい、法駕を整え護衛を備え羽旄を立てて狩をされればよい。詩に「慎み深い威儀は民の手本、威儀を敬み慎むのは民の則である」とある。まことの思いに堪えず、謹んで自筆で愚見を申し上げる、と。皇帝はこれに従った。
千乗王の死と鄧融の獄死
- 秋九月戊寅、千乗王劉建が没した。
- 隴西太守鄧融が獄中で死んだ。もともと鄧融は在職中の評判が悪く、功曹の廉范は彼が必ず罪を得ると見て、病と称して去った。鄧融はこれを大いに恨んだ。
- 廉范は姓名を変えて廷尉の獄卒になることを願い出た。まもなく鄧融は召されて投獄された。廉范は並外れて手厚く世話をした。鄧融はそれが廉范とは思わず、不審に思って「そなたは我が功曹に似ているな」と尋ねた。廉范は「お見違えです、違います」と答えた。
- 鄧融が病んで死ぬまで廉范は篤く看病し、最後まで名乗らなかった。自ら車を引いて棺を南陽まで送り、葬り終えて去った。
廉范の父の喪
- 廉范は字を叔度といい、杜陵の人。祖父の廉丹は王莽の時代に大司馬だった。廉范の父は乱に遭って蜀で客死した。廉范は母とともに西州を流浪し、天下が定まって郷里に帰った。
- 廉范は十五歳のとき母に別れを告げて蜀に入り、父の遺骸を迎えようとした。母は幼さを憐れんで「我が家にはお前一人しかいない。乱世に遭って家が絶え祖先の祭りができなくなることを恐れてきた。ようやく無事でいられたのに、なぜまた私を棄てて遠くへ行くのか」と言った。廉范は強く願い、母も止められず、供の者とともに西の蜀へ入った。
- 蜀郡太守の張穆は廉丹の元の属吏だった。廉范が遺骸を迎えに来たと聞き、吏を遣わして車馬や布帛を贈った。廉范は返して受け取らず、自ら歩いて棺を背負い、険しい道を渡った。
- 葭萌に至って棺を降ろし船に載せたが、船が岩に当たって壊れ沈んだ。廉范は遺骨を抱きかかえ、人が助けに近づいても動かず、そのまま岩の間に沈んだ。人々はその義に心を痛め、みなで鉤を使って探し、一日がかりで引き上げた。抱えて吊り下げているうち、しばらくして息を吹き返した。
- 張穆はこれを聞いて大いに驚き、改めて人を走らせて先の物資を届けようとした。廉范は「前後で言うことを違えるわけにはいかない」として辞退して受けなかった。帰って葬り喪に服した。関中の人はその行いを高く評価した。
史論(袁宏曰・廉范)
- 古の人は救い恵む道理を明らかにし、受け取ることと与えることの分限を示した。危急を助け困難を救い、人の順境と逆境に通じるためである。
- 廉范は厳しく孤高に振る舞い、重んずべきものを一人で背負ったが、その身は危うく失われ、親の柩もあやうく流されるところだった。物事を全うする道ではない。
廉范の田の譲渡と薛漢の事件
- 廉范は帰郷ののち博士薛漢に師事した。かつて廉范の一家が蜀に移る際、良田百余頃を元の属吏の毛仲に預けていた。廉范が帰ると、毛仲の子の毛叔が父の遺言に従って田を廉范に返した。廉范は「物に定まった持ち主はなく、人の手にあればその人のものだ」と言って、田をすべて譲った。
- 公府の掾に招かれた。折しも薛漢が楚王の事件に連座して誅せられ、旧友も門下生も誰一人あえて弔いに行かなかったが、廉范だけが行って遺体を収めた。
- 役人が報告すると、帝は激怒して召し入れて詰問した。「楚王は無道で、天下の乱を救うべきときだ。范は公府の掾でありながら朝廷と心を同じくせず、逆に罪人を収斂した。何者か」と。廉范は叩頭して「臣は不届きにも、薛漢らはすでに誅に伏したのだからと、師弟の情に堪えられませんでした。万死に値します」と答えた。
- 皇帝の怒りはやや解け、「范は廉頗の後裔か」と尋ねた。廉范は「臣はもと趙の人で廉頗の子孫です。祖父の廉丹は王莽の大司馬でした」と答えた。皇帝は「道理でこれほどのことができるわけだ」と言って釈放した。
廉范の治績
- 茂才に挙げられて温令となり、数か月で雲中太守に遷った。折しも胡の賊が反いた。旧例では賊が五千人を超えて塞内に入った場合、隣接の郡に文書を回し、救援が到着してから出撃することになっていた。
- 廉范は警報を聞くとただちに自ら精兵を率いて向かった。賊は勢い盛んで漢兵は敵しえない。そこで廉范は兵士全員に松明を持たせ、明け方に賊の陣へ突進させた。大きな松明が星のように見え、賊は驚いて逃げ、追撃して大破した。以後、賊は恐れて雲中を犯さなくなった。
- 累進して武侯・蜀郡太守となり、赴任先で名声と実績を挙げた。蜀の地は弁論を好み互いの優劣をあげつらう気風があったが、廉范は寛厚をもって民を教化し、人々は彼を慕った。事に連座して免ぜられて帰郷すると、財物を多く分け与えて一族を救った。
- 洛陽の亭長慶鴻と刎頸の交わりを結び、当時の人は「前には管仲と鮑叔、後には慶鴻と廉范」と称した。慶鴻は琅邪太守に至り、赴任先ごとに優れた事績を残した。
郭丹の免官と経歴
- 十月乙卯、司徒郭丹と司空馮魴が免ぜられた。
- 郭丹は字を少卿といい、南陽穰の人。若くして淮陽の公孫昌に師事した。西のかた関に入るとき通行の符を棄て、「伝車に乗らないうちは決して関を出まい」と誓った。
- 当時、公孫昌は王莽の講学大夫で門下生は非常に多かったが、公孫昌はひとり郭丹を特別に遇した。これによって厳尤や王尋が代わる代わる招いたが、いずれにも応じなかった。王莽も召したが、十余年逃げ隠れた。
- 更始が立つと召されて諫議大夫となり、節を持って関を出て南陽を安撫した。世祖が即位すると諸将は皆降って爵邑を受けたが、郭丹だけは城を守って降らなかった。やがて節を包んで担い、険しい道を経て更始の妻子のもとへ行き、節と伝を返してから郷里に帰った。
- のち高第に挙げられ、次第に并州牧・左馮翊に進み、いずれでも評判の実績を挙げた。宰相の位にあっては清廉公正で、侯霸・杜林と親しく、名声も事績も並び称された。
梁松の獄死
- 十二月、陵郷侯梁松が獄中で死んだ。梁松は才能があり漢家の故事に通じており、選ばれて舞陰公主を娶り虎賁中郎将となった。世祖の時代に寵を得て政に関わり、明帝の即位後は太僕卿に遷った。
- たびたび私信で郡県に口利きをしていたことが発覚して免官となり、これを恨んだために投獄されて誅せられた。
竇融の死と竇氏の没落
- 安豊侯竇融が没した。竇融の子の竇穆は内黄公主を娶り、親族はこれによって顕貴となった。子の竇固は沮陽公主を娶り、竇穆の長子の竇勲は東海恭王の娘の北陽公主を娶った。竇穆は城門校尉、竇固は中郎将として羽林を監督し、竇融の従兄の子の竇林は護羌校尉であった。
- 竇氏は一人の三公、二人の列侯、三人の公主、四人の二千石を出し、祖父から孫の代まで官舎や邸宅が並び建ち、奴婢は千余人。親戚や功臣の中で比肩する家はなかった。
- 竇融は老い、子孫は放縦で法度を外れることが多かった。帝は許容できず、たびたび詔を下して竇嬰・田蚡の先例を引き合いに出した。竇融は恐れて辞職を願い出、皇帝は牛と酒を賜って策書で罷免した。
- 竇穆は封国が安豊にあることから六安に落ち着こうとして、旧六安王国を偽って設け、長公主の家と称して上書し自ら申し出た。帝は激怒し、竇穆らの官をすべて免じ、竇氏で郎や吏となっていた者は皆もとの郡へ帰らせ、竇融だけを京師に留めた。折しも竇融は病んで没し、戴侯と諡された。
- 竇穆は大邸宅に住み財産も豊かだった。天子は謁者を遣わしてその家を監護させ、身を全うさせようとした。数年して竇穆父子は失勢を不満として恨み言を漏らした。使者がこれを奏上し、もとの郡へ帰らされた。小吏に賄賂を贈った罪で郡に取り調べられ、竇穆と竇勲はともに獄中で死んだ。詔により竇融の夫人と孫一人が洛陽に戻された。
- 竇固は才能があり世祖の時代に顕貴で政に関わっていたが、竇穆が罪を得ると竇固も職を退いて家に籠もった。
- 東平王劉蒼は輔政が長くなったので、しきりに封国へ帰ることを願い出た。