後漢紀巻第九 孝明皇帝 永平三年 60年

三公の交代

  • 春二月、太尉趙憙と司徒李訢が事件に連座して免ぜられた。左馮翊郭丹が司徒、南陽太守虞延が太尉となった。

虞延と太守傅宗

  • 虞延は陳留東昏の人。初め細陽令となって民に信頼されたが、官を棄てて帰郷した。太守の傅宗がその名声を聞いて功曹に任じた。
  • 傅宗は車馬や衣服が王侯に匹敵するほど華美だったので、虞延はつねに諫めた。晏嬰は斉の宰相でありながら皮衣を繕わず、公儀休は魯の宰相として自宅の畑の葵を抜き機織りの女を追い出した、倹約によって失敗する者は少ない、と説いたのである。
  • 傅宗は顔色を変えて不快がり「昔の諸侯が今の二千石だ」と言った。虞延が陪臣の身で諸侯の例を引いたのが気に障ったのである。虞延は意見が合わないので退いた。
  • 傅宗は果たして奢侈のために罪を得た。刑に処せられる直前、世祖が小黄門を遣わして様子を見させると、傅宗は天を仰いで「功曹虞延の諫めを聞かなかったのが悔やまれる」と嘆いた。

虞延の登用

  • のちに車駕が外黄を通ったとき、詔して陳留太守に「功曹の虞延はいるか」と尋ねた。太守は「今は南部督郵です」と答えた。引見して前任太守を諫めた折の事情を問うと、虞延はありのままに答えた。
  • 外黄の園陵の寝殿にある祭器や俎豆について尋ねると、虞延はその礼式をことごとく心得ていた。これによって謝意を示され、銭百万を賜った。郡中はこれを聞いて彼を見る目を改めた。
  • 司徒府に招かれ、洛陽令に遷った。

洛陽令としての馬成の処断

  • 当時、陰皇后の家の食客である馬成がたびたび不正を働いたので、虞延は捕らえて拘禁した。陰将軍から釈放を求める手紙がひきもきらず届いたが、虞延は一通来るたびに笞二百を加えた。陰氏は虞延が必ず馬成を殺すと察し、虞延が冤罪を濫造していると世祖に訴えた。
  • 世祖は自ら御道に臨み、虞延に獄中の囚人を出させ、判決の済んだ者を東に、未決の者を西に置かせた。馬成は自分の罪はすでに決したと思って東へ行こうとしたが、虞延は進み出てその頭を打ち、「これは民を食い荒らす害虫だ。長く城の社に寄りかかり、いぶし出されることも恐れなかった。今取り調べの最中で、悪事はまだ究明しきっていない」と言った。
  • 馬成が大声で冤罪だと叫ぶと、戟を持つ郎が戟を虞延の首に当てた。世祖は叱ってそれを下ろさせた。世祖は虞延の姿勢が揺るがないのを見て、馬成に「お前は法を犯して自ら招いたのだ。何が冤罪か」と言った。数日後、馬成は誅に伏した。

南陽太守としての鄧衍の件

  • 明帝の即位後、虞延は南陽太守に遷った。
  • 新野の功曹鄧衍は外戚の小侯として朝会に列することができた。殿庭を小走りに通るその姿かたちが非常に美しかったので、皇帝は左右を顧みて「朕の容儀はこれに及ぶだろうか」と言った。左右は「陛下は天子であられます。この凡人など比べものになりません」と答えたが、皇帝は内心彼を気に入り、特別に車馬と衣服を賜った。
  • 南陽の計吏が帰ってこれを虞延に詳しく報告した。虞延は鄧衍の行いが容姿に見合わないと見て、三年たっても登用しなかった。そこで皇帝が鄧衍に命じて南陽功曹と称して宮門に参らせ、郎中に任じた。
  • のち鄧衍は玄武司馬となったが、父のために喪に服さなかった。皇帝はこれを聞いて嘆息し、「人を知るは明智であり、帝堯すらこれを難しとした。虞延の言は真実だった」と言った。鄧衍は恥じ恐れて位を退き、皇帝はますます虞延を優れた人物と認めた。

恩賜と皇子の封建

  • 甲子、天下の男子に爵位二級、三老・孝悌・力田には三級を与え、身寄りがなく貧しくて自活できない者には一人あたり粟五斛を給した。
  • 夏四月辛酉、皇子の劉建を千乗王、劉当を広平王に立てた。

世祖廟の楽の制定

  • 秋八月、担当官が世祖廟の楽について議論した。東平王劉蒼が意見を述べた。
  • 漢の旧来の制度では宗廟はそれぞれ固有の楽を奏し、必ずしも先例を踏襲しないことでその徳を明らかにした。高帝は天命を受けて興り暴虐な秦を誅して天下がそれぞれ落ち着いたので武徳の舞を作り、孝文皇帝は自ら節倹を行い恩沢を四海に施したので盛徳の舞を制した。
  • 光武皇帝は天命を受けて中興し、乱を正して秩序を回復し、封禅して成功を告げ、功徳は高大である。歌は徳を詠うもの、舞は功を象るものであるから、廟の楽は大武の舞と称すべきである、と。この意見が採られた。

北宮造営と鍾離意の諫言

  • 北宮の造営を始めたとき、尚書僕射鍾離意が諫めた。陛下は日照りで雨が降らないのを自ら責め、正殿を避け常の食膳を減らしておられるのに、なお雨が降らない。挙措が適切でなく、政治が天意に背いているのではないか。
  • 昔、殷の湯王は旱魃に遭い六つの事柄で自らを責めた。政治に節度がないのか、民を苦しめているのか、宮室を造営しているのか、女性の口添えが盛んなのか、賄賂が行われているのか、讒言者が栄えているのか、と。
  • 今、民は雨を待っているのに天は久しく旱である。思うに北宮の大工事は、宮室の造営、政治の不節制の類いである。古来、宮室が小さいことが憂いなのではなく、民が安らかでないことこそ憂いである。詩に「我が公田に雨を降らせ、ついで我が私田に及ぶ」とあるのは、君臣が助け合い上下が憂いを共にすることを言う。今天下は疲弊し衣食も足りない。憂うべき事態である。朝廷の禄を食み近侍の列に加わっている以上、申し上げないわけにはいかない、と。

尚書の誤記をかばう

  • 詔によって降伏した胡に絹を賜ったとき、尚書の事務担当が誤って十を百と記した。皇帝は激怒して召し出し、その場で鞭打とうとした。
  • 鍾離意は「過失や誤りは誰にでもあるものです。もし怠慢を罪とされるなら、臣は大官の職にありますから責めはすべて臣にあります。臣が先に罰を受けます」と言い、衣を脱いで打たれようとした。皇帝の怒りは解け、皆許された。

明帝の厳格さと鍾離意の直言

  • 皇帝は気性が急で、細かいところを見抜くのを明察とすることを好んだ。公卿大臣はしばしば謗られ、尚書ら近臣は特にひどかった。これによって朝廷は震え上がり、事はその場しのぎで処理して処罰を避けることが多くなった。
  • 鍾離意だけは面と向かって事を論じ、たびたび詔書を封じて突き返した。群臣が怒りを買うと、そのつど救いを求めた。
  • 鍾離意は彭城の劉平を推薦し、劉平は召されて議郎となった。皇帝はたびたび引見し、侍中・宗正に遷した。劉平は承宮と郇恁を推挙した。いずれも名士である。劉平は老いと病を理由に辞職を願い出て郷里に帰った。

劉平の孝行と義

  • 劉平は字を公子といい、初め孝行で評判を得て郡吏となり、菑丘長を代行した。政治と教化が大いに行き渡り、属県に賊が出るたび劉平に守らせ、赴いた先はすべて治まった。
  • 更始の時代に天下が乱れ、劉平の弟の劉仲が賊に殺された。劉平は劉仲の娘を抱き、自分の子を棄てて逃げた。母が引き返して自分の子を連れ戻そうとすると、劉平は「力は二人とも助けるに足りない。仲の血筋を絶やすわけにはいかない」と言い、去って振り返らなかった。
  • あるとき劉平が母のために食を求めて出たところ、賊に捕らえられ、食われようとした。劉平は叩頭して涙を流し「今朝は老母のために苕を採りに出た。母は飢えて私を頼りに待っている。帰って母に食べさせてから戻って死にたい」と願った。賊はその至誠を見て憐れみ、行かせた。
  • 劉平は戻って母に食べさせると、すぐ「先ほど賊と約束した。義として欺けない」と言って引き返した。賊は皆驚き「烈士のことは聞いていたが、今それを目の当たりにした。お前を食うには忍びない」と語り合った。

劉平の忠と治績

  • 建武の初め、平狄将軍龐萌が反いて太守の孫萌を攻めた。劉平は主簿として白刃を冒して孫萌の上に覆いかぶさり、身に七か所の傷を負い、泣き叫んで「わが身をもって明府に代わりたい」と訴えた。賊は顔を見合わせ「義士だ、殺すな」と言って囲みを解いて去った。孫萌は息絶えてから蘇生し、二人は涙を流して抱き合った。数日後、孫萌はついに死んだ。
  • のちの太守がその節義を嘉して孝廉に挙げ、全椒長とした。掾吏や兵卒は五日に一度だけ役所に来させ、残りの日はそれぞれ農桑に就かせた。役所は暇で事務は簡素、民は感じ入り、盗賊はやみ、税収は増えて諸邑の首位となった。刺史や太守が巡察しても獄に囚人がなく、民は皆それぞれの職を得ていて、尋ねることもなかった。

趙孝兄弟

  • 沛の人趙孝も義行によって重んじられた。字は長平。かつて天下が乱れ人が人を食らうありさまだったとき、趙孝の弟の趙礼が賊に捕らえられた。趙孝はそれを聞くと自ら縄をかけて賊のもとへ行き「礼は長く飢えて痩せている。私のほうが肥えている」と言った。賊は大いに驚き、食うに忍びず二人とも放し、「帰って米糧を持ってこい」と言った。趙孝は得られなかったので、そのまま戻って煮られようと申し出た。賊はその義を認めて害さなかった。
  • 建武の初め、天下が定まったばかりで民は皆食に乏しかった。趙孝は飯が炊き上がるのを待つたびに趙礼夫婦を用事で外に出し、自分は残って妻と菜を食べ、趙礼が戻ると「もう食べた」と言って糧飯を食べさせた。これが長く続いた。趙礼は不審に思ってひそかに様子をうかがい、悲しみ悔やんで、以後外に出ようとしなくなった。兄弟は睦まじく、郷党はその義に服した。州郡から召されても進退は必ず礼にかなっていた。
  • 天子は日ごろその行いを聞いていて、詔して諫議大夫・長楽衛尉に任じた。のちさらに弟を召して御史中丞とした。趙礼も謙虚で礼譲を心得ていた。皇帝は兄弟の篤い行いを嘉して特別に厚遇し、おおむね十日ごとに趙礼を長楽衛尉府へ行かせ、太官に食事を供させて、二人が向かい合って歓を尽くせるようにした。優遇はこれほどだった。
  • 数年して趙礼が没すると香典はきわめて手厚く、趙孝に長楽衛尉として官属を従えて葬送させ、家に葬らせた。

日食と鍾離意の刑法批判

  • 壬申、日食があった。当時は刑法が厳しく人々が不安を抱いていたので、この異変が起こったのだとされた。
  • 鍾離意が上疏した。陛下は自ら孝の道を行い経学を修め明らかにし、天地を敬い畏れる礼と民をいたわる恩がある。それなのに気候は和まず日月は明るくなく、水が湧きあふれて人々を押し流し殺している。咎は群臣が教化を宣べ職務を果たせないところにある。
  • 人々は恐れて余裕を失い、そのため百官は親しまず、官吏と民は和せず、肉親が傷つけ合うまでになって和気に逆らっている。殺罰を加えてもなお止まらない。民は徳によって従わせるべきで、刑によって服従させるべきではない。どうか陛下、刑罰を緩め季節の気に順い、陰陽を調え、これを永く伝えられよ、と。
  • 皇帝は用いることはできなかったが、その忠直を知っていたので長く宮中に留めず、魯国相として出した。政治は大筋を保って細かな過失を追及せず、民に愛された。臨終には遺言として上書し、刑法が厳しすぎるので少し寛くすべきだと述べた。皇帝はその言葉に感じ入り、銭二十万を賜った。
  • 鍾離意が宮中を出たのち、北宮の造営が進められた。徳陽殿が完成して百官を集めたとき、皇帝は「鍾離尚書がいたらこの殿は完成しなかっただろう」と言った。

鍾離意の来歴

  • 鍾離意は字を子阿といい、会稽山陰の人。若くして督郵となった。亭長で民から酒の贈り物を受けた者があり、府から文書が下って取り調べを命じられた。
  • 鍾離意は答えて、詩に「妻に手本を示し、兄弟に及ぼし、家と国を治める」とあるのは、政治教化の根本が近きより遠きへ及ぶことを示している、今はまず府内を正してから外に及ぼすべきで、遠い県の細かな事はしばらく措くべきだ、と述べた。太守は大いに賢明とし、属県の事務を任せた。
  • 会稽で疫病が大流行し死者は万を数えた。鍾離意は単身で見回り、医薬を給して、救われた者は非常に多かった。
  • 司徒府に招かれ、堂邑令となった。民を我が子のように見たので、民は彼を慕った。
  • 邑の住民である防広は遺腹の子で、父の仇を討って投獄されていた。その母が病死し、防広は泣いて飲食もしなかった。鍾離意は憐れんで拘束を解いて家に帰らせ、殯と納棺をさせた。丞や掾は皆反対したが、鍾離意は「自分が命じたことで、罪は丞や掾にはない」と言った。防広は母を葬り終えるとすぐ獄に戻った。鍾離意が事情を報告し、結局死一等を減じられた。

世祖廟の楽の初奏

  • 冬十月、世祖廟で祭祀を行い、初めて大武の舞を奉じ、太楽の名称を改めた。

史論(袁宏曰・楽)

  • 楽の用いられ方には古くからの由来がある。大章と簫韶は唐虞に、韶濩と大武は殷周にあり、上帝に手厚く供え、宗廟を祀り、朝廷に並べて人倫を和らげるためのものだった。これが古の道である。
  • 末世の作は音声の根本に通じず、物に感じては教化に背き、情性の適切さの順序を失った。だから鐘鼓があっても天地を動かすに足らず、金石があっても人と神を感動させるに足りない。それゆえ音声の働きを軽んじ、感じ導く方法をおろそかにするのは、迷いではないか。
  • 嵇康が音声について論じた言葉はすぐれている。以下その趣旨である。
  • 古の王者は天の理を受けて必ず簡素な教えを尊び、無為の道理を仰いだ。君は上に静かに構え、臣は下で順い、大いなる教化がひそかに行き渡り、天下は交わって泰らかになる。群臣は安らかに自ら多くの福を求め、黙って道に感化され、忠を懐き義を抱きながらその理由を意識しない。
  • 和らいだ心が内に満ちれば美しい言葉が外に現れる。だから歌によって志を述べ、舞によって情を表し、そののち文様で飾り、風雅で明らかにし、八音で広め、大いなる和で感じさせ、その気を導き養い育てる。喜びの情を迎えてこれを明らかにし、心と理が順い合い、言葉と音声が応じ合い、通じ合うところに合致してその美を成す。だから楽しむ心は金石の楽器に現れ、大きなものを包み込んで音声に顕れる。
  • こうしていけば万国は同じ気風となり、香しい繁栄がともに茂り、秋の蘭が期せずして香るように、大道の隆盛はこれに勝るものがなく、太平の業もこれより明らかなものはない。だから「風俗を改めるのに楽より優れたものはない」と言うのである。
  • ただし楽の本体は心を主とする。だから声なき楽こそ民の父母である。音声の調和は人情がやめられないものである。それゆえ古人は、情は放縦にできないと知ってその通ずるところを抑え、欲は絶てないと知ってそれによって節度をもたらした。だから守るべき礼を作り、従うべき音を定めた。
  • 口は味を極めず、耳は音を極めず、初めの中庸を測って基準を定め、遠近が同じ気風となって尽きないようにした。これもまた忠信を結び、移ろわぬことを明らかにする方法である。
  • だから郷の教えや学校では修まらぬものを改め、糸竹と俎豆を並べ置き、羽旄と揖譲をともに用い、正しい言葉と和らいだ音を同時に発した。この音を聴こうとすれば必ずこの言葉を聞き、この姿を見ようとすれば必ずこの礼を尊ぶようにしたのである。
  • 賓主が昇り降りしてのち献酬が行われるように、言葉の節度、音の程合い、譲り合いの適切さ、動静のありようが互いに待ち合って一体をなす。君臣はこれを朝廷で用い、士庶はこれを家で用い、幼くして習い長じても怠らなければ、心は安らぎ志は固まり、善に従って日々改まる。これが先王が楽を用いた意である。
  • だから朝宴や聘享にはめでたい楽が必ずあった。国史は風俗の盛衰を採って楽工に託し、管絃で世に広めた。言う者に罪はなく、聞く者が自ら戒めるに足りるようにした。これが先王が楽を用いた意である。

章陵行幸

  • 皇帝は皇太子・皇后とともに南陽の章陵に行幸し、旧居をあまねく見て回り、陰氏・鄧氏ゆかりの旧知の人々を召見して、それぞれに差をつけて賞賜した。