明堂の祀りと服章の復古
- 春正月辛未、明堂で光武皇帝を祀った。初めて冕をかぶり玉を帯びた。儀礼を終えて雲台に登り、雲気を観察した。天下に大赦した。
- 三代以来、服装の制度にはいずれも定まった典礼があった。周が衰えるとその制度は次第に廃れ、戦国時代には各国が華美な服を作った。秦が天下を得ると、それらを取り集めて用い、上は至尊に供し下は百官に賜ったので、先王の服章はここで損なわれた。
- 漢の初めは学問が欠けており時勢も草創期だったので、車や服、旗指物はすべて秦の制度を受け継いだ。多少改めても秦制のまま用いるものが多かった。ここに至って天子は周官と礼記の制度に依拠し、冕・衣裳・佩玉・乗輿を定め、古い形式にならった。
史論(袁宏曰・服章)
- 昔、聖人は天下の大きな利を興し大きな害を除き、自ら事に当たって労を執り、天下の民がそれぞれ生を安んじ夭折の災いに遭わないようにした。だから天下の民は親しんで愛し、敬って尊んだ。
- 親しむとは、その人が安らかで病苦の憂いのないことを願うことである。だから宮室を作り垣で守り、門を重ね拍子木を打って乱暴者に備えた。
- 敬うとは、その人が高く貴く衆人と異なることを願うことである。だから旗を作り服装で表し、階級を隔てて越えられないようにした。
- 後の聖人はこの道理を知り、それが民の心から出て天下の望むところだったので、それにのっとって制度を作り礼の細目を定めた。衣裳から車服・建物・垣に至るまでそれぞれ等級を設け、制度を明らかにし器物の用を尽くした。物を備えても奢侈とせず、必要に応じても吝嗇とはしなかった。
- 大典が定まって天下に示されると、後継者はこれを受け継いで既成の法を守った。だから上に異変はなく下に生業を変える者もなかった。これが先王の道である。
- 末世の君主はほしいままの欲を行い、御殿の基壇が広くないのを恥じて必ず壮大にして宮を広げ、衣裳が華美でないのを不満として必ず豪奢に仕立て、屋根を高くしてもその高さに満足せず、彩色を尽くしても飾りを尽くしたと思わない。こうして民の力は使い果たされ天下はこぞって恨む。これが害の元である。
- だから道を心得た君主は、先王の規範を見、秦漢の失敗を省みて、造営や政務にほどよさを求める。そうすれば人心は喜んで固まり、国運は長く続くのである。
馬皇后の立后と皇太子
- 二月甲子、馬氏を皇后に立て、皇子の坦を皇太子とした。天下の男子に爵位を差等をつけて与え、身寄りがなく自活できない者には一人あたり粟五斛を給した。
馬皇后の家と幼少期
- 皇后は馬援の娘である。四人の兄と二人の姉があり、長兄は馬廖、ほかに馬防・馬光。二人の姉は皇后と同母である。
- 兄の客卿は幼くして際立って優れていた。馬援が南は百越を平定し北は匈奴を征したころ、参謀の士が門下に集まったが、客卿は六歳で高官たちに応対し、一人で賓客をさばいた。死罪を犯して逃亡した者を匿い、人に知らせなかったこともある。馬援は非常に器量を認め、成人すれば必ず将軍か宰相になると考え、秦の官名を字とした。
- 馬援が没したのち客卿は早世した。太夫人は悲しみのあまり病を発し、意識が混乱した。皇后は当時十歳で家事を切り盛りし、下働きの者を差配し、兄弟や親族それぞれに適切な扱いを与えた。周囲は皆それを太夫人の采配だと思っており、あとで尋ねて驚き怪しんだ。
占いの予言と入宮
- かつて皇后が病んだとき、卜者に占わせると「この娘はいずれ帝の妃となる。その貴さは言い表せない」と言った。
- しばらくして太夫人が数万銭もする真珠を紛失し、人相見に尋ねると、一人の侍女を指して「この者が盗みました」と言い、果たしてその通りだった。太夫人は感心して娘たちを見せたところ、皇后を見て驚き「私は必ずこの娘に臣下と称することになる。貴いが子は少ない」と言った。太夫人が「結局子はないのか」と問うと、「一人は生まれるが、たちまち失う。他人の子の力を得るほうが自分の生んだ子より優る」と答えた。
- 十三歳で選ばれて太子の家に入った。同輩に接するさまは貴人に仕えるようで、人を先にし自分を後にすることが誠心から出ていた。これによって寵愛を受けた。
- 担当官が皇后を立てるよう奏すると、太后は「馬貴人は徳が後宮の第一である。その人だ」と言った。
馬皇后の言行
- 皇帝がくつろいで政事を尋ねると、皇后はいつも真心をもって答え、意にかなわないことがなかった。
- 当時、後宮にまだ子を産んだ者がなかったので、皇后は跡継ぎのことを口にし、位ある者を推薦して近づけ、間に合わないのを恐れるかのようだった。寵愛を受けた者には手厚く接し、侍御の者と私語したことがない。慎重に心を配って細事から防ぐさまはすべてこの類いである。
- 性として外出や遊覧を好まず、皇帝が庭園や離宮に行幸するたびに諫めた。その言葉は非常に立派で、皇帝は受け入れた。
- 易経を誦し、詩・論語・春秋を学んでその大意を略述した。人の言葉を聞き議論を見ては要点を摘み取った。光武本紀を読み、千里の馬や宝剣を献じられて騎士に下げ渡し、自ら珠玉を手に取らなかったくだりに至ると、いつも嘆息した。
- 皇后の志は自らを律することにあり、実家のことで朝廷に働きかけなかった。兄の馬廖は虎賁中郎将、馬防・馬光は黄門郎で、明帝の治世が終わるまで官職を変えなかった。
学礼の整備
- 三月、皇帝は初めて学に礼をとり、辟雍に臨んで大射の礼を行い、天下の郡国に学校で郷飲酒の礼を行わせた。
- 秋九月、沛王・済南王・淮南王・東海王が来朝した。
- 冬十月壬子、皇帝は辟雍に臨み、初めて三老・五更を養う儀を行った。これによって士は礼楽にならい、明堂・辟雍・霊台の三雍の儀礼制度が整った。
桓栄への厚遇
- 詔して「五更の桓栄は尚書をもって朕に教えること十有余年である。周頌に『我が明らかな徳を見よ』と言い、また『徳あって報いのないことはない』と言う。桓栄に関内侯の爵と食邑五千戸を賜う」と述べた。
- 桓栄が重態になり、上疏して恩に謝し爵位と封地を返上しようとした。皇帝は心を痛め、その家に行幸し、路地に入ると車を降り、経巻を抱えて小走りに進み、自ら見舞って寝台や帳、衣服を下賜した。これによって見舞う諸侯や大夫は皆寝台の下で拝礼した。没すると贈り物はきわめて手厚く、皇帝は自ら喪服に着替えて葬送に臨み、墓地を賜った。
- かつて桓栄が太常だったころ、皇帝はその役所に行幸して桓栄を東向きに座らせ、脇息と杖を用いる礼を設けた。百官のうち経義に通じる者や桓栄の門下生数百人が集まり、皇帝は自ら講説の席に降りた。難問を出す者があっても皇帝はへりくだって答えず「太師がここにおられる」と言った。供え物と下賜が終わると、御膳をすべて桓栄に賜った。
桓栄の生涯
- 桓栄は字を春卿といい、沛国亢父の人。若くして郡県に仕え、長じて九江の朱文に師事した。家は貧しく雇われ仕事で暮らしを立て、昼夜読誦して怠らず、十五年間家に帰らなかった。京師の人々はこれを称えた。
- 父が死ぬと九江に喪へ駆けつけ、土を運んで墳を築き、そのまま留まって教授し、門人は数百人に及んだ。
- 王莽の末、天下が騒然として戦乱の中で困窮し食糧が尽きたが、経書を抱えて門人とともに山谷に隠れ、講義をやめなかった。
- 建武年間、大司徒に招かれたときすでに六十余歳だった。当時、虎賁中郎将の豫章の何湯は桓栄の門下生で、選ばれて皇太子に経を教えていた。世祖が何湯に師を問うと「桓栄です」と答えた。世祖はただちに桓栄を召して尚書を講じさせ、その説を良しとして郎に任じ銭十万を賜い、宮中に入って皇太子に授けさせ、大いに尊重した。
- 朝会のたび世祖は桓栄に公卿の前で講説させ、長安時代の旧事を尋ねた。世祖が「そなたを得るのが遅すぎた。良き博士だ」と言うと、桓栄は叩頭して「臣の経学は浅薄で、同門の揚州従事皋弘や郎中彭閔に及びません」と答えた。世祖は「よし、そなたも彼らと和せよ」と言い、桓栄を博士に任じた。
- 桓栄は謙虚で奥ゆかしく、御前で論難するときも常に礼譲を保ち、道理をもって諭し、言葉の巧みさで勝とうとしなかった。儒者はこれを高く評価した。
桓郁
- 末子の桓郁は字を仲恩といい、父の学問を継ぎ、任子として郎となった。桓栄が没すると桓郁が爵を継ぐはずだったが、上書して兄の遺児に譲ろうとした。皇帝は許さず、侍中に遷した。皇帝は桓郁が師の子で礼譲を心得ていることから非常に親しく厚遇し、常に宮中に置いて経書を論じ政事を諮問した。
長安行幸と護羌校尉の獄死
- 甲子、長安に行幸して陵廟を祀った。使者を派遣して蕭何と霍光を祀らせ、車駕がその墓所を通る際には車上で敬礼した。二千石・令長以下にそれぞれ差をつけて下賜した。
- 十月、護羌校尉竇林が罪を得て獄中で死んだ。