後漢紀巻第八 光武皇帝 中元元年 56年

封禅の実施

  • 春正月、天子は河図会昌符を読んでその言葉に感じ入った。そこで太僕梁松が改めて封禅を奏請し、許可された。
  • 二月辛卯、皇帝は泰山に登って封の儀を行い、終えて下山した。この日、山上の雲気が宮殿の形をなし、人々は皆それを見た。
  • 甲午、梁父山で禅の儀を行った。

史論(袁宏曰・封禅)

  • 天地は万物を統べる役所であり、山川は雲気の宿る丘である。万物が生い育てば役所の功が大きく、雲雨が潤しを施せば丘の徳が厚い。教化が天下に行き渡れば功は天地に匹敵し、恵沢が一国に及べば徳は山川に合致する。
  • ゆえに王者が国を治めるには必ず天地を根本とし、諸侯が職務を報告するには必ず山川を主とする。それらの姿にならって万物を育む働きを取り、礼をもって告げてその根源に立ち返るのである。
  • 書経には東を巡狩して岱宗に至り柴を焚くとあり、伝には后稷を郊祀して農事を祈るとある。巡狩は教化を視察する通常の務め、祈農は民を安んじる定まった事業だが、それでも誠を清めて手厚く供え天に告げる。まして制度を新たにし物を改め、人も神も従いやすい時であればなおさらである。
  • 禅譲によって天下を受け継いだ者には必ず万物に対する至徳がある。だから王者が国の基礎を築いたときに封禅の事が行われる。その成功を神明に告げるためである。
  • 東方は万物の始まるところ、山岳は霊気の宿るところである。ゆえに物の根本を求めるには始まりの地で行い、通じるところを取るには霊気の宿る場所で行う。壇場を高くすることを封といい、代替わりを明らかにすることを禅という。
  • とすれば封禅は王者が事業を開くうえでの根本の儀礼である。徳が広く行き渡らなければ議論することさえ許されず、功が広く世を救うものでなければこの礼に近づくこともできない。幾世代に一度あるかどうかの、きわめて高い道である。
  • ゆえに黄帝・堯・舜から三代に至るまで、それぞれ一度ずつ封禅があり、途中でこの礼を繰り返した例はない。位を継いだ君主に功徳があっても、それは旧来の事業を受け継ぎ前代の政治を補強したにすぎず、国を創建し天命を改めた者と肩を並べることはできない。
  • 神の道はひたすら一筋で、その働きは煩わしくない。天地は簡素で、その礼は質朴を尊ぶ。白茅を敷くのはその誠実な素朴さを貴ぶからで、土器や瓢を用いるのは従いやすさを取るからである。とすれば封禅の礼も簡素でよい。石の函や玉の札などは天地の本性にかなうものではない。

張純の死とその生涯

  • 三月丙辰、司空張純が没した。
  • 張純は字を伯仁といい、京兆杜陵の人。父の張放は昌平侯の爵を継ぎ、成帝の時代に遊興の相手として寵を得た。張純自身は学問と行いで評判を得て、哀帝・平帝の世に侍中や諸曹校尉を務めた。王莽の時代には九卿となり、乱世に遭っても侯爵を保ち続けた。
  • 建武の初め、いち早く宮門に参上したので旧来の封国に復され、太中大夫を拝し五官中郎将に移った。担当官が「列侯であっても宗室でない者に復国は認めるべきでない」と奏したが、皇帝は張純の宿衛の勤めが長いことを理由に取り上げず、武始侯に改封して富平の半分を食邑とした。
  • 張純は前朝に仕えて故事に精通していた。当時、朝廷は創業間もなく旧来の典礼が多く欠けていたので、疑義が生じるたび張純に諮問した。郊祀・宗廟の礼から冠礼・婚礼まで、彼が正し定めたものが多い。
  • 張純は慎重で口が堅く、上書のたびに下書きを削り捨てた。皇帝は彼を非常に重んじ、一日に何度も引見した。宰相となってからは無為の政に努め、曹参の跡を慕った。招いて用いた人材はいずれも当代の通儒であった。

張純の遺言と子の辞退

  • 張純は臨終に家丞へ「司空は国家に功労がないのに過分な恩を蒙った。爵位を子孫に及ぼすべきではない。跡を継がせるな」と命じた。
  • 張純の長子の張根は病気がちだった。使者が跡継ぎを尋ねると、家では末子の張奮を挙げた。張奮は辞退して「亡父の遺言により、臣ら兄弟は爵を継げません。ですから臣は継ぎませんでした。思いがけず詔書を承って驚き恐れております。兄は臣が幼いのを不憫に思って病気だと申し立てたのですが、聞き入れられませんでした」と述べた。
  • 張奮は字を釈通といい、へりくだって倹約し、一族はよく和合していた。租税の収入を一族に分け与え、自分はいつも困窮していた。官は司空に至った。

祥瑞と改元をめぐる対応

  • 夏四月己卯、天下に大赦した。梁父・奉高・羸の各地は今年の田租を免除した。
  • 戊子、皇帝は長安に行幸し長陵を祀った。このころ甘い泉が湧き、京師の住民で長患いの者は飲めば皆治った。また泉のほとりに赤い草が生えた。三十一の郡国から甘露が降ったと報告があった。
  • 担当官が「孝宣帝の時代にはめでたい徴があるたびに改元し、神雀・五鳳といった年号がありました。神々に応え、徳と信を表彰するためです」と奏したが、天子は退けて受け入れなかった。そのため史官は記録することができなかった。
  • 六月、衛尉馮魴が司空となり、関内侯の爵を賜った。

呂后と薄太后の位の入れ替え

  • 冬十月甲申、司空馮魴を遣わして高廟に告げる礼を行わせた。その内容は、高帝は群臣と劉氏でなければ王としない約束を交わしたのに、呂太后は呂氏一族を王とし三人の趙王を滅ぼした、神霊の加護によって呂氏は誅され国家は永く安泰となったのだから、呂后を地祇と高廟に配して祀るべきではない、薄太后は慈悲深く、孝文皇帝は賢明で、子孫はその福に頼って今日に至っているのだから、薄太后こそ地祇と高廟に配して祀るべきだ、というものである。
  • そこで薄太后の尊号を高皇后とし、呂后の尊号を高后に改めた。

史論(袁宏曰・親尊)

  • 他人を批評するのはその人を憎むからではなく、身内を褒めるのはその人が優れているからではない。立場が違えば公と私の心の働きが異なるのである。
  • 聖人はそれを知っているので、彼我の道理を明らかにし公私の道筋を分けた。そうすれば身内の悪をあえて言わずにおく義が立ち、親を尊ぶ道が伸びる。
  • 昔の人は、先君の体は今の君主の体と同じだと考えた。近い関係から推して遠い関係を知れば、先代と当代を扱う義は等しいはずである。まして大きな悪事を暴き立てて貶め退けるなど、なおさらあってはならないことだ。

明堂・辟雍・霊台の造営と讖緯論争

  • この年、明堂・辟雍・霊台の造営を始めた。
  • 初め霊台の位置を議した際、皇帝が議郎桓譚に「讖によって決めようと思うがどうか」と尋ねた。桓譚はしばらく黙り込んだのち「臣は讖を読みません」と答えた。理由を問われるとさらに讖の誤りを説いた。
  • 皇帝は激怒し「桓譚は聖人をそしり法を無視している。引き出して斬れ」と言った。桓譚は叩頭して血を流し、しばらくしてようやく許された。
  • 桓譚は何度も皇帝の意に沿わなかったため、六安の郡丞として出され、失意のうちに鬱々として楽しまず、赴任の途中に病死した。時に七十余歳であった。

尹敏の讖書批判

  • 南陽の人尹敏は字を幼季といい、学問が深く議論に長けていた。司空掾として図讖の校訂に加わった。
  • 尹敏は皇帝に「讖書は聖人の作と言われますが、その中には最近の言葉が多く、字面から連想を働かせた俗人の文辞が混じっています。真偽を見分けがたく、後進を誤らせることを恐れます」と述べた。皇帝はこの言を認めなかった。
  • 尹敏は讖書の空白部分に「君に口なきは漢の輔けとなる」と書き足した。皇帝はそれを読んで見つけ、尹敏を召して理由を問うた。尹敏は「臣は前の人々が多く書き足し削っているのを見ました。ですから自分でも書き入れたのです。罪は言い訳のしようもありません」と答えた。
  • 皇帝は深く咎めたが罰はせず、その箇所を削らせただけだった。しかしこのために出世が滞り、官は長陵にとどまった。
  • 尹敏は性格が淡白で功名を求めず、もっぱら聖賢の書を好んだ。初め班彪と親しく、語り合うたびに日が暮れても食事を忘れ、昼はそのまま夜に、夜はそのまま朝に及んだ。班彪は「こう長く語り合っていると俗人に怪しまれる。だが鍾子期が死んで伯牙は琴を壊し、恵施が世を去って荘周は門を閉ざした。真に語り合える相手に出会うのは難しいのだ」と語った。