後漢紀巻第八 光武皇帝 建武二十八年 52年

諸王の就国と匈奴征伐の拒絶

  • 春正月、諸王をそれぞれの封国に赴かせた。
  • 三月、臧宮が上書して匈奴征伐を勧めた。詔で答えて言うには、徳ある君主は自分の楽しみで民を楽しませ、徳なき君主は自分の楽しみで我が身を楽しませる。民を楽しませる者は国運が長く続き、我が身を楽しませる者は久しからずして滅びる。だから土地が広いだけの者は荒れ、徳の広い者が強いと言うのだ。今は善政もなく災異が止まず、不作の年を憂えている。論語にも「季孫の憂いは顓臾にはなく、屏の内側にあるのを恐れる」とある。それなのにさらに遠征しようというのか、と。
  • 冬十月癸酉、死罪の者を蚕室に下し、女子は宮刑とする詔を出した。

太子の師傅の人選

  • 皇帝が群臣を集めて太子の師傅にふさわしい者を問うと、皆が執金吾陰就を挙げた。博士張佚は顔色を正して「今陛下が太子を立てられるのは陰氏のためですか、天下のためですか。陰氏のためなら陰侯でよいが、天下のためなら当然天下の賢者を用いるべきです」と述べた。
  • 皇帝は「よい」と言い、「太子を輔けるために師傅を置こうとしているのに、この博士は朕を正すことすら躊躇しない。まして太子に対してはなおさらだろう」と述べ、張佚を太子太傅、桓栄を少傅に任じ、輜車と乗馬を下賜した。
  • 桓栄は一族の子弟を大勢集めて車馬と印綬を並べ、「これはすべて古を学んだ力による。励まずにおられようか」と語った。

桓栄の上疏と太子の返答

  • 皇太子の経学が一通り修まった。少傅府の桓栄が上疏し、自分は幸いに側近く仕えたが経学は浅く聖質に益するところがなく朝夕恥じている、今太子の経学はすでに通じた、物心ついて以来、皇太子で師傅を務めうる者はいなかったが今の太子だけはそれができる、これは万国の幸いである、自分の師としての務めは尽き、すべては太子にある、と述べ、掾の汜を遣わして再拝し「道を返上する」と申し出た。
  • 太子は返答して言った。自分は幼くして教えを受けること九年、深く師の意を解していないのに過分な褒め言葉を受けるのは実情に合わない。五経の道は広大で、天下の至精な人でなければ関われない。宰予のように孔子の門に直接学んだ者ですら怠けて昼寝をした。まして才のない者はなおさらだ。その人でなければ道は空しく受け取れない。冉求も「先生の道を喜ばないのではなく、力が足りないのだ」と言った。道を返上して謝礼を受けるなどとは、とても承れない、と。

諸王の賓客をめぐる大獄

  • 当時は法網がゆるやかで、王侯や貴人は多くの賓客と交わっていた。寿光侯劉悝は更始帝の末子で、沛王劉輔に寵愛されていた。劉悝は盆子が父を殺したことを恨み、劉輔を頼って刺客を雇い、盆子の兄である元の式侯劉恭を殺して報復した。劉輔は連座して三日間投獄された。これを機に諸王の賓客が捕らえられ、死者は千余人に及んだ。
  • かつて馬援は司馬の呂种にこう語っていた。建武の初めは天地が開けたようだと言われ、これから海内は日ごとに安楽になるだろう。ただ自分が一人心配しているのは、皇族の子弟が皆成人し、誰も兆しを警戒せず広く賓客と交わって門前が市のようになっていることだ。ここから大獄が起こるのを恐れる、慎めよ、と。
  • 馬援の兄の娘婿である王磐は、元の平阿侯の子で、施しを好み士を愛し、江淮の間に名を轟かせていた。のちに京師に出て諸侯と交際した。馬援は親しい者に「王子石は傑物だが、京師で身分ある人々の間にいながら意気に任せて振る舞い、人を圧倒し傷つけることが多い。必ず身を滅ぼす」と語っていた。
  • 果たして王仲・王磐・馮衍はいずれも諸王の賓客として投獄された。王仲は「馬先生の言葉は神業だ」と嘆じた。王仲と王磐は獄中で死に、馮衍は赦されて出たが、官を退けられて家に籠もった。

馮衍の上言と生涯

  • 馮衍は上言してこう述べた。帝王の大筋と古今に通じる道理を思うと、常に一人心を痛める。高祖ほどの英略をもってしても、陳平の謀は、これをそしれば疎まれ、これに与すれば親しまれた。文帝ほどの明察をもってしても、魏尚の忠は、法で縛れば罪となり徳で扱えば功となった。時代が下って、董仲舒は道徳を説いて公孫弘に妬まれ、李広は匈奴に対して節義を奮って衛青に排斥された。これこそ忠臣が涙を流す理由である。
  • 自分は上に鮑叔のような推薦者もなく、下に馮唐のような弁護もなく、董仲舒ほどの才も李広ほどの功労もない身で、今の世で讒言を免れようというのは難しい。
  • 自分の先祖は忠貞ゆえに一族の禍を招いた。自分は戦乱の時代にあって、身を曲げてへつらい世俗の利を求めることをしなかった。君に仕えて邪な謀はなく、将帥として略奪の心を持たなかった。
  • 今幸いに清明の世に遭い、身を慎んで行うべき時であるのに、恨みと敵意が入り乱れ、非難が世に満ちている。思うに富貴の身は善を行いやすく、貧賤の身は巧みに立ち回りにくいのだ。田舎に遠ざけられた臣には宮門を望む日はない。恐れながら自ら述べて罪過を救おうとする、と。
  • 上書は奏されたが天子は用いなかった。以前の過失があったためである。
  • 馮衍は字を敬通といい、馮奉世の子孫である。並外れた才があり博学で読まぬ書はなかった。王莽の時代に多くの高官が推挙したが辞退して仕えなかった。度量が大きく才を自負して世に迎合できず、ついに不遇のまま志を得なかった。日ごろ意気盛んで名賢の風格を慕った。家は貧しく年老いてなお司隷従事にとどまった。
  • 全椒侯馬成が没した。