烏桓の来貢
- 春正月、烏桓の大人である郝且らが一族を率いて貢物を献じた。その首長たちを封じて侯・王とした。
- 烏桓は東胡の一族である。漢の初め、匈奴の冒頓がその国を討ち、生き残りが烏桓山に拠ったことから、この名がついた。
- 風俗として騎射に長け、水草を求めて放牧し、定まった居所を持たない。木を刻んで信符とし、文字はないが人々は掟に背かない。もとは匈奴に服していたが、匈奴の国内が乱れると烏桓は勢いを増し、匈奴を襲撃した。匈奴は数千里も移動を強いられ、漢の南辺は空白地帯となった。
- 戊申の晦、日食があった。
馬援の再出征
- 先に劉尚の軍が全滅したため、あらためて将帥を派遣する議論が起こった。当時馬援は六十二歳で、皇帝はその老齢を気づかい、内々に人選をして決めかねていた。
- 馬援は自ら願い出て「臣はまだ鎧をつけて馬に乗れます」と述べた。皇帝が試させると、馬援は鞍にまたがって左右を見回し、それから降りた。そこで彼を派遣することとなった。
- 冬十月、伏波将軍馬援、揚虚侯馬武、東牟侯耿舒が武谿を攻めた。馬援は親しい杜憶に「厚い恩を受けながら国事に殉じられないことをいつも恐れていた。今こそ心置きなく目を閉じられる場を得た。ただ気がかりなのは、身分ある家の子弟が側近に、あるいは同僚として加わっていることで、それだけが厭わしい」と語った。
鄧晨の死
- 南郷侯鄧晨が没した。かつて常山・汝南の太守を務め、いずれでも実績を挙げて役人にも民にも慕われた。汝南では鴻陂を築いて数千頃の田を潤し、住民は今もその恩恵を受けている。
- 召されて光禄大夫となり、しばしば宴席に侍って昔語りをした。鄧晨がくつろいだ調子で「私はとうとうやり遂げました」と言うと、皇帝は大笑した。
- 鄧晨が病に倒れると天子は自筆の手紙で見舞い、皇后や寧平公主も皆涙を流した。没すると謁者を遣わして新野王の霊を招き、官属を備えて北邙山に合葬した。皇帝と皇后が自ら葬送に臨み、下賜品はきわめて手厚く、恵侯と諡された。