南方の反乱と南単于の来降
- 春正月、南郡の蛮夷が反乱し、武威将軍劉尚が撃破した。江夏郡を設置した。
- 三月、南単于が使者を送って藩臣を称し、旧来の盟約を結び直したいと願い出た。皇帝が公卿に諮ると、多くは「蛮夷は華夏を乱すもので、真意を測りがたい。許すべきでない」と述べた。
- 大司農耿国は、天下が定まったばかりの今こそ受け入れるべきで、東は烏桓を懐柔し北は匈奴を防げば辺境は永く戦役から解放される万世の策だ、と主張した。皇帝はこれを是として従い、中郎将段柳を匈奴に派遣した。
南単于の帰服と北単于の後退
- 南単于はひれ伏して詔を受け、弟の左賢王に兵を率いさせて北単于を攻め、続けて破った。北単于は恐れおののき千里退いた。
- 南単于は臣を称して辺塞の内側に移り住み、上書して子を人質に送り貢物を献じた。漢からは冠帯や衣服、黄金の亀鈕の印璽、各種の調度が定数ずつ下賜された。単于は配下の諸族長を分けて配置し、北辺の守りとした。
- 北単于は恐れて捕虜にした漢人を返したいと申し出、たびたび使者を武威に送って漢の使節を求めた。皇太子は「南単于が立ったばかりのこの時期に使者を送れば、南単于の心を損なう恐れがある」と述べ、書面で返答するだけにとどめ、使者は派遣しなかった。
武谿の敗戦と功臣の死
- 冬十二月、武谿の蛮夷が反乱し、劉尚を派遣したが、その軍は全滅した。
- 驃騎大将軍杜茂、鬲侯朱祐、祝阿侯陳俊が没した。
朱祐の人物
- 朱祐は儒学を尊び、議論はつねに古の法にのっとった。将帥としては降伏を受け入れ敗走する敵を追ったが、敵を打ち破ることを功績とみなし、首級の多寡を問題にしなかった。そのため戦利品を得られない部下の中には不満を抱く者もいた。
- 鬲侯に移封され食邑七千余戸を与えられたが、功績に比べて賞が大きすぎるとして南陽の五百戸で十分だと辞退した。皇帝は許さなかった。
- かつて皇帝が長安に遊学していたころ、朱祐を訪ねると講義の最中で、講義が終わるのを待って共に語り合った。のちに皇帝が朱祐の邸を訪れて昔話をした際、「主人は私を放って講義を続けたものだったな」と冗談を言った。