後漢紀巻第七 光武皇帝 建武二十一年 45年

秋 祭肜の北辺経営

  • 秋八月、馬援が三千騎で高柳から出撃したが、道に迷って引き返した。
  • 匈奴と鮮卑が遼東を侵した。太守の祭肜が官兵を率いて撃ち、二千余の首を挙げた。さらに追撃して塞外に出、千余の首を挙げ、武器を接収し馬数千疋を得た。これにより匈奴・鮮卑は震え上がって服し、塞を窺わなくなった。
  • 祭肜は二つの敵を離間して勢力を分けようと考え、鮮卑を招いて利益を示した。鮮卑がその後、塞を叩かなくなったのは祭肜の計略による。
  • 冬十月、匈奴が上谷・中山に侵入して官民を殺し略奪した。

西域の来朝と竇融の退隠

  • 西域の鄯善王安・莎車王賢ら十六国が使者を送って貢物を奉り、そろって都護の設置を願い出た。帝は中国が平定されて間もなく外事に手が回らないとして、厚く賞賜して帰らせた。
  • 大司空竇融が病により策免された。一年余りして衛尉の職務を代行した。竇融は何度も病を理由に辞職を願い出、銭帛を賜り、太官が珍味を届けた。弟の顕親侯竇友が没した。帝は竇融の老衰を憐れみ、中常侍を寝室に遣わして無理にでも飲食を勧めさせた。

杜林の上疏と司空就任

  • このころ諸郡国はどこも大水に見舞われ、民は飢饉に苦しんでいた。光禄勲杜林が上疏した。
  • その趣旨は次のとおり。先王の道は、聡明な君主が用いれば治まるという点で共通している。悪を見ることは農夫が草取りに励むようなもので、刈り取り積み上げて再び生えないようにし、兆しのうちに防ぐ。狼の子には野心があり、走る馬はよく驚くものである。
  • 成王はその患いを深く知り、殷の民の六族を伯禽に、七族を康叔に、懐姓九族を唐叔に分け与えてその不正を取り締まらせ、残りの民は成周に移して、強大な力を挫き驕り高ぶる心を退けた。
  • 漢の初興も旧来の章典に照らして昔と同じ方策を取り、斉の田氏、楚の昭・屈・景、燕・趙・韓・魏の子孫を移して六国の強豪一族を弱めた。だから里に利を貪る家がなく、山沢に土地を兼併する民がなく、万里が一つに統べられて天下は安泰であった。その後は喪の悲しみに乗じ、死者を送る義をもって促し、みなを陵墓の地に付き従わせ、振り返る心を残さなかった。過去の政治を振り返ると、いずれも神道によって教えを設け、百代にわたる要を強く固めるものであった。だからこそ長く安寧の福を享受し、恐れおののく憂いがなく、後嗣は業を継いで身を慎むだけで治まった。
  • 今、災害に遭った民のうち、身軽で守るべきものを持たない者は穀物の豊かな郡に移すべきである。凶事を散らして命を全うさせるためである。
  • 昔、魯の隠公は賢明な行いがあり国を桓公に譲ろうとしながら、なおぐずぐずと惜しんで早く退けなかった。まして草創期の豪族の頭目は、もともと生業がなく、混乱に乗じて山川の利をほしいままにした者たちである。災害に遭ったとはいえ、安逸に慣れた心と僥倖を望む気持ちは広がって尽きることがない。よく見極めねばならない。

  • 帝は杜林の才が宰相にふさわしいと見て、司空の欠員に杜林を充てた。

  • 杜林は九卿から三公に至るまで、上奏のたび、また朝議に加わるたび、常に経書に依拠し古に照らして、いい加減に大勢に従うことがなかった。職責を全うする宰相であり、帝も大いによしとした。公卿の身でありながら講義を怠らず、学者が朝夕堂に満ちて、士人は彼を慕った。

申屠剛

  • はじめ杜林は杜陵の人申屠剛を推挙した。剛直な士で、史魚や汲黯の人柄を慕っていた。西州に乱を避け、隗囂を諫めるたびに義の心が顔色に表れた。
  • 帝は申屠剛を侍御史とし、尚書に転じた。歯に衣着せぬ直言が多く、屈することがなかった。
  • 当時、隴と蜀がまだ平定されていないのに帝が近くへ出かけようとした。申屠剛が諫めても帝は聞かなかったので、申屠剛は自分の頭を車輪に当てて進めなくし、ようやく取りやめさせた。
  • 申屠剛はしばしば帝の厳しい顔色を冒したので、外に出されて陰平令となった。のち召されて太中大夫となり、病により職を去って家で没した。