秋 馬援の帰還と「馬革裹屍」
- 夏六月、中山王の劉輔を沛王に移した。
- 秋、馬援が交阯から帰還した。位は九卿に列し、賞賜はきわめて手厚かった。
- 馬援が京師に着こうとするとき旧知が出迎えた。平陵の人孟冀は謀の士で、遠征から帰った馬援の労をねぎらい祝った。
- 馬援は、あなたには何か特別な言葉を期待していたのに、また世間並みのことを言うのか、と応じ、続けて語った。武帝のとき伏波将軍路博徳は七郡を開いて符離侯に封じられ数百戸だった、自分はただ乱れた郡を平定しただけなのに、みだりに近県に封じられ三千戸にもなった、国家が隴の役での功まで併せて記録したからだ、自分では功が薄く賞が厚いと思う、人は功が厚く賞が薄いほうが後々長続きする、先生はどう助けてくれるつもりか、と。孟冀は、愚かにしてそこまで考えが及びません、と答えた。
- 馬援はさらに言った。今なお匈奴と烏桓が北辺を騒がせている、自分から願い出て匈奴を撃ちたい、男子たる者は辺地に死んで馬の革に屍を包んで葬られたいものだ、寝台に寝て女子供の手に囲まれて死ねようか、と。孟冀は、まことに烈士とはこうあるべきです、と言った。
- 折しも匈奴が右北平に侵入した。詔でその件が馬援に示され、馬援はみずから北辺の防衛に当たった。
- 十月、帝は東海・沛国に行幸した。五原郡を廃止し、その官民を河東に移した。
- 十二月、伏波将軍馬援が定襄に出撃した。帝は馬援の労苦を賞して絹千疋を賜った。
- 馬援は黄門の竇固と太僕の梁松に語った。およそ人の富貴は、また卑しくなりうる余地を残しておくべきだ、公らのように貴くて元に戻れないのは困る、高い位にあるほど身を堅く保て、私の言葉を考えてほしい、と。識者はこの言葉を聞いて嘆息しない者はなかった。
呉漢の死
- 大司馬呉漢が没した。忠侯と諡し、霍光の先例に倣って葬られた。
- 呉漢の性格は強靭で、出征に従うたび帝が安心するまで自分は休まなかった。戦況に浮沈があって諸将が動揺することがあっても、呉漢は常に自ら将兵を励まし、いっそう兵器を整えた。帝が人を遣って様子を見させると、呉公はちょうど攻城の道具を修理しています、と報告された。帝は、呉公がこうであれば、静かにしていても一国の敵に相当する、と評した。
- 朝廷では公正無私であった。かつて旱魃のとき公卿が雨乞いをしても効き目がなかったので、呉漢は使用人をすべて出して一斉に解放した。
- また呉漢が出征している間に妻子が田を買って家産を増やしたことがあった。呉漢は帰ると妻子を責め、将帥が外にあり将兵は足りていないのに、なぜ田宅を買い込むのかと言い、すべて兄弟と妻の実家に分け与えた。その忠誠は生まれつきのものだったので、常に礼に則って行動し、功名を保ったまま生涯を終えられた。
陰興の辞退
- このころ帝は衛尉の陰興を大司馬にしようとした。陰興は頭を地につけ、身を惜しむのではない、ただ聖徳を損なうことを恐れる、と述べ、辞退がきわめて強かった。帝はそれを容れた。
- そこで扶楽侯劉隆を驃騎将軍として大司馬の職務を代行させた。