後漢紀巻第七 光武皇帝 建武十九年 43年
春正月 傅鎮の反乱
- 正月、巷人の傅鎮が反乱を起こし、臧宮が討った。
- 東海王劉陽が、賊は追い詰められて脅されて叛いただけで、中には必ず悔いている者がいる、今きつく囲むよりは少し緩めて逃げさせるがよい、逃げてしまえば亭長でも捕らえられる、と述べた。これに従うと、賊は果たして敗れて逃げ散った。
馬援、新息侯となる
- 馬援が徴貳らを斬った。二月、馬援を新息侯に封じた。
- 馬援は牛と酒を用意して将兵を労い、杯を手にして語った。従弟の少游は、自分が高ぶって大志を抱くのを憐れみ、人生は一度きり、衣食が足り、仕官は郡の掾吏どまり、先祖の墓を守り妻子を養い、郷里で善人と呼ばれればそれでよい、それ以上は何になるのか、と言った。
- 続けて、自分が浪泊の西にいたとき、足元は水浸し、上は霧、毒気が立ち込め、飛ぶ鳶を見上げるとぱたぱたと水中に落ちた、あのとき少游の言葉を思い出したが、望むべくもなかった、今は諸君の力によって自分が先に恩賞を受けた、だから嬉しくもあり恥ずかしくもある、と述べた。座中の者はみな嘆息した。
史論(袁宏曰・少游の言)
- 少游の言葉には思うところがある。人の性分には静と躁の違いがあり、低い地位と質素な暮らしに安んじ、目立たぬ生き方を守り、栄名を履物を脱ぐように捨てて顧みない者もいる。この二つの道はいずれも道をもって全うされる、それぞれ一家の趣である。
- しかし功業は成し遂げがたく、質素に生きるほうは従いやすい。それなのに古今の士はみな功業に身を寄せ、閑適を選ぼうとしない。自分の才を恃み、周囲を見て動くからであろう。
- とはいえ栄名と功業が悪いわけではない。千載一遇の機会に、知恵を働かせる場に身を置くのが難しいのである。質素に安んじ目立たぬ生き方を守るほうは、人の世の喜びに関して言えば、たやすくて煩いがない。
- しかし平坦な道でなければ外物は思うにまかせず、蟻けらでさえ害をなしうる。まして万物においてはなおさらである。だから長く貧賤に留まるのは、志ある者にとってはやはり恥である。落ち着くところを言えば、家を保つ主たることであろうか。
馬援の九真平定
- 詔により馬援はさらに九真を攻め、無功から居風に至って三千余の首を挙げ、その首領数百家を零陵に移した。
- 馬援は通る先々で城郭を修築させ、灌漑を整え、古来の制度を明示して規律を明らかにした。以後、駱越は常に馬将軍の定めた先例に従った。
太子の交替
- 郭氏が廃されて以来、太子劉疆は落ち着かずにいた。郅惲が勧めた。長く疑われる地位にとどまるのは、上は孝の道に背き下は危険に近い、昔、高宗は賢君、吉甫は良臣だったが、わずかな隙があれば孝子が追放された、『春秋』の義では母は子によって貴くなるという、太子は咎を自ら引き受けて身を退くべきだ、と。
- 劉疆は側近を通じて誠意を述べ、藩屏の列に加わりたいと願った。世祖は長くためらった末に許した。
- 十月戊申、皇太子劉疆を東海王に封じ、東海・魯国二郡の租税を食邑とし、車馬や服飾は諸王より上とした。劉疆は上書して東海を辞退し、さらに新太子を介して真意を口頭でも述べた。帝は許さず、劉疆の上奏文を公卿に示して感嘆した。
史論(袁宏曰・儲君)
- 太子を立てて世継ぎとするのは、宗統を重んじ民心を一つにするためである。天下に対する大きな罪がない限り動かしてはならない。
- 世祖は後漢の業を中興したのだから、統一の道に従って後嗣の法とすべきであった。今、太子の徳は外に対して欠けるところがないのに、内寵が多くなったために嫡子が位を移されたのは、失策と言うべきである。
- しかし東海王が藩国に退いてからは謙虚な心がいっそう明らかになり、明帝が位を継いでからは兄弟の情がますます篤くなった。長幼が位を入れ替え、興廃が同じでなかったとはいえ、父子兄弟の真情には隔てがなかった。三代の道をもってこれに処したとしても、これ以上のことがあろうか。
郅惲の生涯
- 郅惲は字を君章といい、汝南西平の人。志気が高く、当世に迎合しなかった。
- 王莽の末年、民が命令に堪えられなくなったとき、郅惲は西の長安に赴いて上書し、王莽を諫めた。その趣旨は、智者は天命に順って徳を成し、愚者は逆らって害を招く、天子の位には天命があり、正当でないのにむなしく得るべきものではない、上天が戒めを垂れ、陛下を臣の位に戻そうとしている、陛下は天命に順って禍を福に転じるべきで、早く決断しなければ位を盗んだ謗りを免れない、天は陛下の厳父、臣は陛下の孝子であり、父の教えは廃せず子の諫めは咎めるべきでない、というものだった。
- 王莽は激怒してただちに詔獄に下し、大逆として弾劾した。それでも郅惲が正義に立脚しているので即座に殺すのは難しく、黄門の近臣に脅させて、狂気で我を失い自分の言ったことが分からなかったと言わせようとした。郅惲は最後まで翻さず、述べたことはすべて天文と聖意であって狂人に作れるものではない、と言い張った。冬を越して拘禁され、恩赦に遭って免れた。そこで南の蒼梧に遊んだ。
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建武の初め、蒼梧から郷里に戻った。県令が身をへりくだり礼を尽くして門下掾に迎えた。郅惲はその心に感じて招きに応じた。
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郅惲の友人董子張の父と叔父が人に殺された。董子張が危篤になったとき郅惲が見舞うと、息が絶えてしばらくして戻り、郅惲を見てすすり泣いた。郅惲は、あなたが悲しんでいるのは寿命の長短ではなく、二人の父の仇を討てないことだと分かっている、と言った。董子張は臥したまま目で郅惲を見つめた。
- 郅惲はただちに立って人を率いて仇を追い、その首を取って董子張に見せた。董子張は悲しみと喜びのうちに息を引き取った。
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郅惲はすぐ県令のもとへ自首した。県令の対応がためらいがちなので、郅惲は、交わりのために仇を討つのは役人としては私情である、法を奉じて曲げないのが長官の義である、長官を欠けさせて自分だけ生きるのは節ではない、と言い、走り出て獄に向かった。県令は素足で追いかけ、刀を抜いて自分に向け、お前が出てこないなら私は死んで潔白を示す、と言った。郅惲は県令に従って出た。
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久しくして郡の功曹となった。汝南の慣例では冬に饗宴を行い、百里以内の県はみな牛と酒を持って府に集まり宴を開いた。太守欧陽歙が饗礼を終えて布告を出した。西部督郵の繇延は生まれつき忠貞で公正、担当地区をよく治めて姦雄を打ち破った、『書』に「民を安んずるは恵み、民はこれを慕う」とある、善を挙げて教えれば劣る者も励む、今、諸儒とともに繇延の功を論じて朝廷に顕彰する、太守は謹んでその美をたたえ牛酒をもって徳を養う、というものだった。
- 主簿が布告を読み上げ、戸曹が繇延を引き出して賜与を受けさせようとした。
- 郅惲が進み出て跪き、言った。司正が杯を挙げ、主君の罪を天に告げて謝します、明府はお言葉に誤りがあり、覆い隠すべきではありません、調べるに繇延は貪欲邪悪で、赴任地は荒れ乱れ、苛酷なばかりで治まらず、冤罪と悪事が並び起こって民は怨んでいます、それを明府が悪を善とされ、補佐の者も争わない、これでは主君もなく臣もない、君臣ともに失われては誰が罪ある者を挙げるのか、主君が倒れかけても臣下が支えれば滅びずにすむ、惲は謹んで再拝し杯を奉ります、と。
- 欧陽歙はたいへん恥じ入った。門下掾の鄭次都が、君が明らかであれば臣は直言する、功曹の言葉が厳しいのは明府の徳です、杯を受けずにいられましょうか、と言った。太守は、まことに歙の罪である、謹んで杯を挙げる、と言った。
- 郅惲はそこで冠を脱いで言った。昔、虞舜が堯を補佐したとき四人の罪人がみな服し讒言が行われなかった、だからこそ股肱の臣となり帝は歌をもってたたえた、惲は不忠にも佞人を顕彰する場を作り、功績を論じて猛獣のような者が政に加わるのを招いた、しかも誹謗したうえ公然と言い立てた、これより重い罪はない、惲と繇延をともに拘禁して善悪を明らかにされたい、と。
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欧陽歙は、これは自分の過ちだと言い、宴を開かずに散会した。郅惲は府に帰って病と称し、繇延も退いた。
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鄭次都はもともと清高な人物で郅惲と親しく、郅惲を誘って去ろうとして言った。道が違えば互いに謀らないのは古来のこと、あなたの率直な心はまことに三代の道だ、繇延は退いても必ず戻ってくる、あなたが主君に容れられぬ危うい目に遭うのは見るに忍びない、去ってはどうか、と。
- 郅惲は答えた。孟子は、主君にできぬことを強いるのを忠、主君にできぬと決めつけるのを賊とした、自分はすでに強いた、朝廷で主君を遮っておきながら職務に殉ぜず自分の正しさだけを求めるのは罪だ、繇延が退いたうえで自分まで去るわけにはいかない、と。
- 鄭次都はそのまま去って弋陽の山中に隠れた。数か月後、繇延は果たして再び召された。郅惲はただちに官を去って鄭次都のもとに身を寄せ、釣り暮らしを大いに楽しみ、数十日とどまった。
- 郅惲はやがて嘆じて言った。天が優れた士を生むのは民のためだ、隠れ住むのは天命に背き人倫を乱すことにならないか、鳥獣と群れを同じくはできない、あなたは私に従って伊尹となるか、それとも巣父・許由のように堯を辞するか、と。
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鄭次都は答えた。自分はこれで満足だ、幸い身と一族を全うして帰り、先祖の墓を守り学問を尽くせる、道が世に行われなくとも政に生かすならそれも政をなすことだ、自分は年老いた、あなたに従うことはできない、あなたは正しい天命に励み、心を労して命を損なうな、と。二人はそれぞれ別れて去った。
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郅惲は江夏に身を寄せ、郡から孝廉に挙げられて郎となり、帝の東城門候に転じた。
- 世祖がかつて夜に外出して帰り、詔で門を開けさせて入ろうとしたが、郅惲は入れなかった。帝は門から松明を掲げさせて自分の顔を照らさせたが、郅惲は、明かりは明るいが遠すぎます、と答え、そのまま拒んで開けなかった。
- 翌日、郅惲は諫めた。昔、文王は狩猟に耽らず万民のために正しくあった、陛下は山林で遊猟し夜を昼に継いでおられる、社稷宗廟をどうなさるのか、虎に素手で向かい大河を歩いて渡るというのは最大の戒めである、小臣がひそかに憂えるところです、と。これにより帝は郅惲を重んじ、太子に『詩』を授けさせ、常に殿中で講義させた。
- 後に梁令、長沙太守となり、教化を重んじ優れた行いを表彰した。
太子の輔導と年末の反乱
- 帝は執金吾陰識に太子の家を護らせ、博士桓栄に太子の経学を授けさせた。二人はともに専心して補導し、徳義をもって導き、太子も虚心に受け入れた。
- 秋九月壬申、帝は南陽に行幸した。
- 冬十二月、越嶲太守の任貴が反乱を起こし、武威将軍劉尚が平定した。