後漢紀巻第七 光武皇帝 建武十八年 42年
春 史歆の反乱と長安行幸
- 春二月、蜀郡の史歆が反乱を起こした。巴郡宕渠の楊偉・徐客らがそれぞれ兵を挙げて史歆に呼応した。大司馬呉漢と臧宮がこれを討った。
- 壬午、帝は長安に行幸して園陵を祀った。
夏 交阯遠征
- 夏四月、伏波将軍馬援、扶楽侯劉隆、楼船将軍殷志、平楽侯韓宇が交阯を攻めた。合浦に至って殷志が病死した。
- 馬援は海路で交阯に入るべきだったが船が足りず、山越えの経験者に尋ねたうえで海に出て山伝いに千余里の道を開き、西から浪泊に至って徴貳らを撃った。降伏した者は数千人。韓宇も後に病死し、馬援はその軍勢も併せ率いて徴貳らを禁溪まで追い、連戦して破った。徴貳らはそれぞれ数百人を率いて逃げた。
- 戊申、帝は河内に行幸した。
- 五月、代王の盧芳が再び匈奴に入った。
- 六月壬戌、益州の死罪以下の逃亡者を赦した。
- 秋、史歆らを平定した。呉漢は楊偉・徐客ら二百余戸を長沙に移した。
- 冬十月、帝は南郡に行幸し、帰途に章陵を祀った。
樊重・樊密の家風
- 辛丑、外祖父の樊重に寿張敬侯の諡を追贈した。
- 樊重は字を君雲といい、家は代々温厚で三代にわたり財産を分けなかった。家中には規律があり、子孫が挨拶に出るさまは役人のようであった。使用人に遊び暮らす者はなく、自ら目を配ったので財産を殖やすことができ、田は三百頃、資産は巨万に達した。
- 事業を興すには先の長い計画を立て、器物を作ろうとすればまず梓や漆を植えた。人々は笑ったが、結局その用に立った。暮らしぶりは一国の君主に匹敵した。
- 外孫の何氏兄弟が財産を争ったのを樊重は恥じ、田二頃を出してその訴訟を解決させた。これにより県の人々はその徳と譲りの心を敬った。
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樊重は八十余で没したが、取り立てずにいた貸付が百余万あった。臨終に証文をすべて削り捨て、子には告げなかった。借り手はこれを聞いて先を争って返しに来たが、子らは受け取らなかった。
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次男の樊密は字を靡卿という。はじめ斉武王とともに義兵を挙げたため、湖陽が妻子を捕らえて殺そうとした。湖陽令は、樊重父子は郷里で礼にかなった行いをしている、たとえ大罪があっても後回しにすべきで、どうして殺せようかと言った。一族にも捕らえられた者があり多くが害されたが、樊密の妻子だけは免れた。
- 後に世祖に従って征伐に励み、寿張侯に封じられた。樊密は謙虚で慎み深く、官位にこだわらなかった。父子で内々に、富貴が満ち溢れて全うできた者はいない、栄達を喜ばないわけではないが、天道は満ちたものを憎み謙るものを好むのだから天道を畏れるのだ、前代の外戚は明らかな戒めである、身と命を全うするのは楽しいことではないか、と戒め合った。
- 朝会のたび平伏して時刻が尽きるのを待ち、参内無用と命じられても手落ちを恐れて早朝から宮門に出向いた。政治の得失を見れば意見を献じたが、いつも自筆で書いて草稿は削り捨てた。公卿が拝謁して政事を尋ねても最後まで答えなかった。
- 病に倒れたとき帝が自ら見舞い、涙を流して望みを尋ねた。樊密は、功もないのに大国を食んでおり、子孫が大恩を保てず自分の魂が黄泉で恥じることを恐れる、寿張を返して小さな郷亭を食みたい、と述べた。帝はその言葉に胸を打たれた。後に樊密の末子の樊茂を平望侯に封じた。
- 臨終に子らへ薄葬を命じ、静かに掃いて戸を閉じよ、副葬品は入れるな、夫人とは塚を同じくしても墓室は分け、それぞれ通路を一つにせよ、死者と生者は別なのだから棺は一度納めたら二度と開けるべきでない、腐敗すれば孝子の心を傷つける、と言い残した。朝廷はこれをよしとし、恭侯と諡した。
- はじめ戦乱が起こって帝の母が没したとき、一族の樊臣公だけが自ら納棺の世話をした。世祖は即位すると彼を中大夫に抜擢した。
李通の死
- 固始侯李通が没し、恭侯と諡された。下賜はきわめて手厚く、帝と皇后が自ら弔問して葬送した。