後漢紀巻第六 光武皇帝 建武十年 34年

夏 馮異の死と「大樹将軍」

  • 夏、征西大将軍馮異が洛門を攻めたが落とせぬまま没した。節侯と諡された。
  • 馮異は謙虚で功を誇らなかった。行軍して宿営するたび諸将が功を言い争うなか、馮異はいつも大樹の下に身を退けていたので、軍中で「大樹将軍」と呼ばれた。帝が諸営の将兵を分けるにあたって誰の営に属したいかを問うと、みな大樹将軍に属したいと答えた。帝はこれによってますます彼を重んじた。
  • 会戦して敵に当たるときのほかは、馮異はいつも諸営の後ろに位置し、諸将と行き合えば車を引いて道を譲った。そのため将兵は功を争えず、進退にはすべて旗印が定まっていて、厳正整然と評された。
  • 子の馮彰が跡を継いだ。帝は馮異の功を追慕し、末子の馮訢を祈郷侯に封じた。

秋 高峻の降伏

  • 秋八月己卯、帝は長安に行幸して高祖廟を祀った。
  • 帝が高峻を討とうとすると、寇恂が諫めた。車駕が長安に留まるだけで隴西を震え上がらせるに足りる、関東からも遠くないので落ち着いた一か所から四方を制御できる、今は人馬とも疲れており遠く険阻を越えるのは天子の身の安全にかなわない、前年の潁川の一件を戒めとすべきだ、というのがその趣旨である。
  • 帝は聞き入れず、進んで汧に至った。高峻は降らなかった。帝は寇恂に「お前は先に私を止めた。今度は私の代わりに行け」と言った。
  • 寇恂が第一に着くと、高峻は軍師の皇甫文を寇恂のもとへ寄こしたが、その態度と言葉は屈しなかった。寇恂は怒って斬ろうとした。諸将は、高峻の兵は精強で、降伏させようというときに使者を斬るのはよくないと止めた。寇恂はかまわず斬り、副使を高峻に帰らせた。高峻はその日のうちに城を開き、隗純らとともに降伏した。
  • 諸将は祝賀しつつ、軍師を殺したのになぜかえって降伏したのかと尋ねた。寇恂は、皇甫文は高峻の腹心で方針を決める者であり、来て様子を窺いながら態度を屈しなかったのは降る気がない証拠である、これを殺せば高峻は自分の半身を失う、それで気持ちが動くから必ず降ると分かった、と答えた。諸将はみな、とても及ばないと言った。
  • 高峻と隗氏一族は関東に移された。まもなく隗純が数十騎で匈奴に逃げ込もうとして追撃され斬られた。

北辺の防備と王霸

  • 呉漢・王霸が劉芳を撃った。劉芳配下の胡騎が平城の下に集結したが、連戦してこれを大破した。
  • 当時、劉芳は匈奴と結び、烏丸もしばしば侵略したので、辺境の民は苦しんでいた。王霸は砦と物見を築き亭鄣を設け、代郡から平城まで三百余里に及んだ。
  • 王霸はしばしば上書して辺境の対策を述べ、匈奴とは和親すべきこと、また輸送は温水を利用すれば陸送の労を省けることを説き、のちにいずれも実施された。
  • 王霸は兵を愛し、戦死者には自分の衣を脱いで納棺し、負傷者には食事を中断して口に運んだ。上谷に二十余年在任し、匈奴と数十百戦を交えたが、将兵はみな争って力を尽くした。

是歳 寇恂と銚期の死

  • この年、執金吾寇恂と衛尉銚期が没した。
  • 寇恂は九卿の位にあって大国の租税を受けたが、すべて友人に施し旧知に分け与えた。常々、自分がここまで来られたのは士大夫のおかげであり、分かち合わずにいられようかと語っていた。
  • 寇恂は学問と行いをともに修め、朝廷での名声は重く、宰相の器があると評された。早世したので惜しまない者はなく、威侯と諡された。寇恂の兄弟および甥・姉の子で軍功により侯となった者は八人に上る。寇恂はしばしば閔業の忠誠を推挙し、帝は閔業を関内侯とし、官は遼西太守に至った。

史論(袁宏曰・人材)

  • 世の患いは、その時代に人材がいないことである。人材がいても君主が知らないことが患いであり、知っていても任せ切らないことが患いである。この三つの患いは古今変わらず、世を治めるうえで最も難しいところである。
  • 寇恂の才能は中央でも地方でも任に堪えるものだった。河内を一時的に鎮め、潁川を再度安定させた程度では、その能力を発揮させたとは言えない。汝南にあって儒生を招いて『左氏』を学んだのは、あまりに閑職である。晩年は悠々と過ごすばかりで、政治の根幹に与ることができなかった。
  • 世祖ほどの明君と寇恂ほどの智能をもってしても、その時代に力を出し切れなかった。まして凡庸な君主のもとではなおさらである。

銚期の人となり

  • 銚期は将として先陣を切って敵陣に突入し、自ら敵を斬り捕らえた。戦況が不利なとき、銚期に頼って盛り返したことが幾度もあった。
  • 人となりは信義を重んじ、城邑を攻め落としても略奪をしなかった。朝廷にあっては不善を見れば必ず君主の意に逆らってでも諫めた。
  • 帝がかつて期門の兵を連れて近くに出かけたとき、銚期は車の前に額をつけ、古今の戒めは異変が不意に起こることにあります、陛下がお忍びでたびたび出られるのは望みませんと述べた。天子はそのために車を返した。
  • 銚期が病に倒れたとき、母が跡継ぎを問うと、銚期は、国の重恩を受けながら常に恥じ入るばかりで、死んでも報いる術を知らぬのに跡継ぎの話などできようか、と答えた。帝は自ら臨んで衣を贈り、忠侯と諡した。