後漢紀巻第六 光武皇帝 建武十一年 35年

春三月 南陽行幸と荊門の戦い

  • 三月己酉、帝は南陽に行幸し、章陵に立ち寄って園廟を祀った。
  • これに先立ち、公孫述は大司徒任満・翼江王田戎に数万を率いさせて荊門に拠らせ、浮橋を長江に横たえて水路を断ち、営塁を山に跨がせて陸路をふさいでいた。
  • 帝は呉漢・岑彭・臧宮に六万の兵で荊門を攻めさせた。岑彭には、大司馬(呉漢)は騎兵の運用には長けるが水戦を知らない、荊門の作戦は一切征南(岑彭)に委ねる、と詔した。
  • 閏月、呉漢・岑彭が軍を率いて攻めた。折しも東風が吹き、船は風に押されて流れを遡り、まっすぐ浮橋に突っ込んだ。そこへ火を放つと、風が煽って火勢が盛んになった。白兵戦となり蜀兵は驚き恐れ、大軍は風に乗って一斉に進み、当たるところ敵なしであった。任満は敗れ、溺死者は数千人に上った。田戎は退いて江州を守った。
  • 岑彭はそのまま長駆して江関に入り、兵に略奪を厳禁し、通過する土地で牛や酒の供応も受けず、長老に会っては漢の恩徳を説いた。民は喜んで門を開き降伏を願った。呉漢・臧宮は後から進んだ。

六月 来歙の暗殺

  • 六月、来歙と蓋延が武都に入り、公孫述の将王元を攻めて破った。勝ちに乗じて進むと蜀の人々は震え上がり、刺客を送って来歙を刺した。
  • 刃がまだ抜けぬうちに来歙は蓋延を呼んだ。蓋延は来歙を見るなり泣きじゃくって顔を上げられなかった。来歙は蓋延を叱り、虎牙よなぜそんなことをするのか、使者たる自分が刺客にやられ国に報いられなくなったから巨卿を呼んで軍事を託そうとしたのに、逆に女子供のように泣くのか、刃が身に刺さっていてもお前を軍法で斬れぬとでも思うのか、と言った。蓋延は涙を拭って指示を残らず受け、来歙は言い終わると自ら刃を抜いて絶命した。
  • 帝は悼み嘆いてやまず、中郎将の印綬を贈り節侯と諡した。柩が洛陽に還ると車駕は自ら弔問し、葬送にあたって激しくむせび泣いた。顕彰と賜与はきわめて手厚く、長子の来褒が跡を継いだ。帝は来歙の忠節を嘉し、弟の来由を宜西侯に封じた。
  • 来歙の人となりは誠実で言行が一致していた。数年にわたり使命を帯びて隗囂の説得に赴いたが、その往復の言葉はいずれも後で検証しても違いがなかった。

鮑永と鮑恢

  • 帝が来歙の喪に臨んだとき、趙王良と張邯が城門で行き合った。道が狭かったため趙王良は張邯に車を回すよう怒鳴りつけた。まもなく趙王良は怒って門候の岑遵を呼びつけ、辱めた。
  • 司隷校尉鮑永は趙王良の大不敬を弾劾した。趙王良は並ぶ者なく尊重されていたので帝は聞き入れなかったが、群臣は鮑永を強く畏れた。
  • 鮑永は平陵の人鮑恢を招いて都官従事とした。鮑恢もまた剛直で権勢に屈しなかった。詔に「貴戚も手を控えて二人の鮑を避けよ」とあり、重んじられ方はこの通りであった。
  • 鮑永は字を君長といい、上党屯留の人。父の鮑宣は正義を守って屈せず、王莽に誅された。王莽はその子孫まで滅ぼそうとし、上党都尉の路平が意を受けて鮑永を害そうとしたが、太守の苟諫が鮑宣の忠節を評価し、鮑永を府中に置いて守り通した。
  • 鮑永はしばしば諫言して漢室を安んじ姦臣を捕らえる策を述べた。苟諫は、機密が漏れれば害が生じる、禍は人の門に寄りかかっているものだ、と戒めた。
  • 苟諫が死ぬと路平は今度は鮑永の弟の鮑升を捕らえた。新任の太守趙興が着任して嘆き、自分は漢の封土を受けながら身を捧げて節を立てられずにいる、鮑宣が死んだうえその子まで害せようかと述べ、県に命じて鮑升を釈放させ、改めて鮑永を功曹に召した。
  • そのころ侍中と称して宿駅に泊まる者がいた。趙興は出向いて挨拶しようとしたが、鮑永は本物ではないから行くべきでないとした。趙興が構わず車を出そうとすると、鮑永は州の門で佩刀を抜いて馬の胸帯を切った。趙興は車を戻した。数日後、詔書が下ってその男は捕らえられ、果たして使者と偽っていた。これで鮑永は名を知られた。
  • 鮑永は魯郡太守から司隷校尉となり、管内巡察で霸陵に至って更始の墓の前を通ったとき、車を降りようとした。従事が止めたが、鮑永は、臣として仕えた相手の墓の前を素通りするのは忍びない、それで罪を得ても司隷は避けないと言い、車を降りて哀悼を尽くした。
  • 右扶風に至って苟諫の墓に詣でた。帝が「使者たる者がこのようにするのはよいのか」と問うと、太中大夫張湛は、仁は百行の宗、忠は礼義の主であり、仁は旧恩を忘れず忠は君を忘れない、行いの高い者です、と答えた。帝は喜んだ。

清貧の官 宣秉と王良

  • はじめ雲陽の人宣秉、字は巨卿が御史中丞となり、司隷校尉に転じた。大筋を押さえて細事にこだわらず、政治は厳しいが苛酷ではなく、百官も敬い畏れた。
  • 帝がその役所に行幸したとき、宣秉が木綿の夜具と素焼きの器を用い、粗末な魚の食事をしているのを見て、楚の二龔(龔勝・龔舎)でもこれには及ばぬと嘆じ、その場で幃帳や器物を賜り、司徒司直に任じた。宣秉は俸禄をすべて一族に分け、家には蓄えがなかった。
  • 東海の王良、字は仲子もまた司徒司直となり、大司徒の職務を代行した。貧しく暮らして質素を守り、妻子を任地に伴わなかった。
  • 司徒掾の鮑恢が用事で蘭陵に行き、王良の家に立ち寄ったとき、薪を背負って入ってくる女を見たが、王良の妻とは気づかなかった。鮑恢が、自分は司徒掾で京師に帰るところだが奥方から手紙はないかと尋ねると、その女は、あいにく手紙はございませんと答えた。あとで問うと王良の妻だった。鮑恢は嘆息して立ち去った。こうして王良の清貧は天下に聞こえた。
  • 王良は病を理由に辞任して帰郷し、天子は礼を尽くして召した。やむなく病身を車に載せて京師に向かったが、途中で友人の家に寄ったところ門を閉ざして入れず、忠言や優れた策があって高位に就くのでなければ徳がないということだ、なぜあくせく往来して煩わしさをいとわないのか、と言われ、会ってもらえなかった。王良はそのまま重病と称して帰り、生涯二度と出仕しなかった。

冬 臧宮・岑彭の蜀進攻

  • 冬、岑彭は江州の城が堅固で兵糧も多いことから馮駿を留めて押さえとし、軍を率いて涪江から平曲を攻めた。
  • 公孫述は汝寧王延岑・大司空公孫恢・将軍王元を広漢に、大司徒侯丹を黄石に配して防がせた。岑彭は臧宮に延岑らを当たらせ、自らは都江を遡って侯丹を撃ち破った。
  • 当時、延岑らは沆水に大軍を集めていたが、官軍は千余人にすぎず、帰順した者が四、五万口いて兵糧が不足していた。蜀の民は各々城塁を固めて形勢を見守っていた。臧宮は退きたかったが敵に押さえられるのを恐れた。
  • そこへ謁者が数百の兵を率いて岑彭のもとへ向かってきたので、臧宮は詔命を偽ってその兵を接収し、隊列をわざと疎らにして旗と太鼓を多くした。蜀の人々は漢の大軍が急に来たと聞いて山に登って眺め、旌旗が谷を埋め喚声が山を揺るがすのを見て震え上がった。臧宮はその恐慌に乗じて兵を放って大破し、公孫恢を斬り、死者は一万余人に上った。王元は降伏した。そのまま勝ちに乗じて進み、行く先々でみな降伏した。

岑彭の暗殺

  • 岑彭は侯丹を破ると昼夜兼行で二千余里を進み、一気に武陽に赴き、別に精騎を広都へ急行させた。成都まで数十里の地点であり、行く先々の敵は逃げ散った。公孫述は驚愕し、杖で地を打って「これは何という神業か」と言った。
  • 岑彭が陣を置いた土地の名は「彭亡」であった。岑彭はこれを嫌って移ろうとしたが日暮れになった。その夜、蜀が送った刺客に刺されて岑彭は死んだ。
  • 岑彭は最初に荊門を破り武陽まで長駆し、率いる軍は整然として巴蜀の人々に称えられた。民は彼を慕って武陽に廟を建てた。壮侯と諡された。帝はその功を思い、庶子の岑淮を穀陽侯に封じた。
  • 帝は公孫述に書を送って成敗の理を説いた。公孫述は書を読んで嘆息し、光禄勲張隆に見せた。張隆は降伏を勧めたが、公孫述は、興廃は天命だ、降参する天子などいるものかと言い、側近は何も言えなかった。
  • 岑彭の死を受けて、呉漢が精兵二万を率い夷陵から犍為へ出た。